「ケプロン」を編集中
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6月 農務局長を辞任 | 6月 農務局長を辞任 | ||
− | + | 8月 [[トーマス・アンチセル]]、[[A.G.ワーフィールド]]、[[スチュワート・エルドリッジ]]らを伴い来日、横浜に到着 | |
9月 東京に[[官園]]設置し北海道に導入する作物の試作など開始、七重、札幌にも官園を開設 | 9月 東京に[[官園]]設置し北海道に導入する作物の試作など開始、七重、札幌にも官園を開設 | ||
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7月 北海道視察報告書(第2次ケプロン報文)を提出 | 7月 北海道視察報告書(第2次ケプロン報文)を提出 | ||
− | *1873(明治6)年 | + | *1873(明治6)年 6月〜9月 第2回北海道巡察([[ライマン]]を伴って石狩川・豊平川の流域調査、開拓使農園・[[萱沼炭鉱]]視察) |
*1874(明治7)年 5月〜8月 第3回北海道視察(新室蘭、琴似と札幌周辺の[[屯田兵]]入植予定地・候補地を調査、[[ライマン]]とともに石狩川源流部の鉱物調査、日高沿岸部の牧畜・漁業などの開拓状況を調査) | *1874(明治7)年 5月〜8月 第3回北海道視察(新室蘭、琴似と札幌周辺の[[屯田兵]]入植予定地・候補地を調査、[[ライマン]]とともに石狩川源流部の鉱物調査、日高沿岸部の牧畜・漁業などの開拓状況を調査) | ||
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== 業績・足跡 == | == 業績・足跡 == | ||
− | 英国から移住した医師の家に生まれ、[[南北戦争]]に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国の第二代農務局長となった。1871(明治4)年、渡米中の開拓次官・[[黒田清隆]]と出会い、黒田の強い要請を受けて開拓史顧問としての来日を決意し、職を辞した。同年7月7日、工鉱業技師[[アンチセル]]、測量土木技師[[ワーフィールド]]、秘書[[ | + | 英国から移住した医師の家に生まれ、[[南北戦争]]に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国の第二代農務局長となった。1871(明治4)年、渡米中の開拓次官・[[黒田清隆]]と出会い、黒田の強い要請を受けて開拓史顧問としての来日を決意し、職を辞した。同年7月7日、工鉱業技師[[アンチセル]]、測量土木技師[[ワーフィールド]]、秘書[[エルドリッチ]]を伴って横浜入り。[[お雇い外国人]](外国人技術者)らを指揮して北海道開拓に関する意見を[[開拓使長官]]に進言するとともに、事業の推進にも関わった。<br> |
[[アンチセル]]、[[ワーフィールド]]の予備調査に続きケプロン自身も、三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『[[ケプロン報文]]』にまとめた。開拓構想は、農業牧畜・水産、鉱工業の振興から道路や鉄道整備、教育など多岐にまたがり、精緻な調査に基づいていることや欧米の先進的な技術の活用を目指している点に特徴がある。特に、札幌を首都とすることや、[[札幌農学校]]の創設につながる農科大学の設置、米国式の農畜産技術の導入などの提言は、現在につながる北海道開拓の基盤となった。<br> | [[アンチセル]]、[[ワーフィールド]]の予備調査に続きケプロン自身も、三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『[[ケプロン報文]]』にまとめた。開拓構想は、農業牧畜・水産、鉱工業の振興から道路や鉄道整備、教育など多岐にまたがり、精緻な調査に基づいていることや欧米の先進的な技術の活用を目指している点に特徴がある。特に、札幌を首都とすることや、[[札幌農学校]]の創設につながる農科大学の設置、米国式の農畜産技術の導入などの提言は、現在につながる北海道開拓の基盤となった。<br> |