北海道屯田倶楽部

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子思孫尊2-1

 



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  ルーツ探しの旅をエッセイに

   篠路屯田兵五世

      見延 典子 さん

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 先祖はなぜ北海道に渡ったのか―。篠路屯田兵の子孫でもある作家・見延典子さん(北海道屯田倶楽部会員)が、このほど紀行エッセイ『私のルーツ』を出版しました。副題にあるように「なぜ」という素朴な思いからルーツ探しの旅を始め、新たな発見や奇跡的な出会いを通して、三百年以上も前の先祖にたどり着くまでが、さまざまなエピソードを交えて綴られています。


日露戦争を時代背景に執筆へ


 
見延さんは札幌市出身で、早稲田大学在学中に書いた小説『もう頬づえはつかない』(一九七八年)はベストセラーとなり、桃井かおり主演で映画化もされました。現在お住まいの広島市を拠点に執筆活動を続け、幕末の尊皇運動に大きな影響を与えた『日本外史』の著者・頼山陽に関する作品を数多く発表し、彼の破天荒な人生を描いた『頼山陽』(二〇〇七年)で第二十七回新田次郎文学賞を受賞しました。

 江戸後期が舞台の『頼山陽』に続く『敗れざる幕末』(二〇一二年)で幕末を、『汚名』(二〇一六年)で日清戦争を描いた見延さんは、次回作の時代背景として日露戦争に目を向けました。執筆の取っ掛かりとなる題材を探していたところ、出征の際に撮影したと思われる曾祖父の写真が札幌の実家に残されていたことから、本格的なルーツ調査に乗り出したそうです。


実家にあった軍装の曾祖父の写真


 
写真に映っていたのは、母方の曾祖父・井川宇八さん(後に中山茂三郎と改名)で、陸軍の制服・制帽に脚絆、背嚢、そして着剣した銃を手にした重装備の立ち姿が勇ましく見えます。茂三郎さんの直系の孫が残した中山家の系譜に関する記録によると、茂三郎さんは明治二十二(一八八九)年、屯田兵に応募した父・井川惣助さん(後に嘉平と改名)に伴われて徳島県から篠路兵村に入植しました。このとき、惣助さん一家九人のうち養子の平八さんを独立した戸主として父子同時に応募し、遠く離れた北海道に渡って来たのです。

 「札幌の中学か高校生時代に、先祖が屯田兵だったと聞いた」程度だった見延さんは、祖先が北海道に渡った理由を求めて、中山(井川)家が郷士として仕えたとされる蜂須賀(徳島)藩の史跡や旧・篠路兵村地区など屯田兵ゆかりの地を訪ね歩きました。そして調査が進むほどに、新たな疑問も湧いてきました。


 「戊辰戦争における賊軍の立場や、稲田騒動とも関連した移住だったのだろうか」

 「自然災害や飢饉が原因と考えても良いが、場合によっては故郷に戻って来る可能性を秘めての移住だったのではないか」

 「屯田兵で二口応募する際に、名前を変え、年齢を偽ったのはなぜか」