北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊2-1
開拓の歴史を未来へとつなげる旭川屯田兵4世
旭川兵村記念館副理事長・旭川神社宮司
芦原 髙穂 さん
立派な大鳥居をくぐり抜けると、最初に出迎えてくれたのは、樹齢三百年を超えるかと思える春楡の巨木でした。同じように樹上を見上げたであろう屯田兵たちの姿を想像するうちに、寮歌か何かの一節をつぶやいていました。
…徒らに明日の運命を嘆かんよりは楡林に篝火を焚きて、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳はん…
兵農一如の使命を背負って開拓を志した若者たちは、どんな現実に向き合い、どんな未来を夢見たのか。そして、何を心のより所にしたのか。四代にわたって兵村とともに歩んで来た旭川神社の宮司さんに、お話をうかがいました。
「旭川神社」の名に込めた
屯田兵の誇り
―旭川神社の由緒書きを読みますと、屯田兵が旭川に入植した明治二十五(一八九二)年には、いち早く村社建設が決議されたそうですね。
旭川兵村は一時、永山村に編入され、忠別市街地が「旭川」の名を使うことになりました。これを知った屯田兵が反対運動を起こし、北海道庁は旭川兵村を「東旭川」と公称し「旭川の発祥は、東旭川であることを後世に残すため、そのまま学校や神社等に『旭川』の名を使用して良い」と告示(明治三十一年九月六日)しました。
「屯田絵巻」などの史料収集
―旭川神社は、旭川の開拓の礎を築いたという屯田兵の誇りと団結心のシンボルでもあるわけですね。
旭川屯田兵の出身地は十一府県にまたがり、郷土の風習も違えば使う言葉も違ったわけです。それぞれが屯田兵としての使命を共有し、中隊という組織の下で統合されているわけですが、家族を抱えて集団移住した兵村には、互いにつながり合う「絆」も必要でしたし、気持ちを一つにするための「心のより所」も求められたのだと思います。
入植してすぐにお社を建立したというのも、「心を一つにして村づくりに当たろう」といった気持ちの表れだったのではないでしょうか。やはり入植直後の出来事として、撃ち獲った熊の肉を全戸で分け合ったという話が伝わっており、人と人、家族と家族をつなぎ合わせるのは、そうした日常の積み重ねであり、年に一度の祭りが重要な場になっていたと考えられます。
―「祭り」は人と人との間をつなぐ「間釣り」が語源とする説がありますが、雑多な出自の者が集まって一村を形成する屯田兵村では、とりわけ神社と祭りが大切にされた理由がよく分かります。その一端を四代にわたって担ってきた芦原家は、どのような経緯で旭川神社の神職を務めることになったのですか。
―この度北海道の文化財に指定された「屯田兵絵物語・屯田絵巻」の保存と、境内にあります旭川兵村記念館の整備に関しては、先代の芦原嚴宮司の功績が大変大きかったようにうかがっています。屯田兵の子孫の皆さんとともにご苦労されたと思いますが、記念館建設当時はどのような様子だったのでしょうか。
屯田兵の資料を集めるきっかけとなったのが、昭和三十八(一九六三)年の旭川市との合併でした。当時、東旭川町の役場にはまだ中隊関係の史料が残っていまして、職員から父に「このままでは処分されてしまいますが、どうしましょうか」と照会があったのです。屯田兵の二世の中からも「今のうちにしっかり保存しないと開拓の歴史が失われてしまう」といった声も上がり、中隊史料を引き受けるとともに、資料集めが始まりました。
当初はリヤカーを引いて各戸を回り、古い農機具やら民具などを運んだものですから、「神社は雑品屋を始めたのか」と言われたこともあったそうです。中には屯田兵手帳などもあり、ガラスケースに収めて展示を始めました。そのうち、博物館関係の方々が視察にやって来て、大変評価していただいたのですが、防火の問題を指摘されたことから、記念館の建設計画に乗り出したわけです。
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