北海道屯田倶楽部

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子思孫尊2-1

 



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  「武士の誇り」伝える太田屯田兵三世

     増田 秊 さん


 戸籍簿によると、幾五郎氏は彦三郎氏の長男とあり、彦三郎氏の次男の貞吉氏とともに戸主・亀吉(拓)氏の家族に名を連ねています。その彦三郎ゆかりの巻物が、増田家の仏壇の奥から写真とともに出てきました。所々が虫食い状態になっていますが、武術の免許皆伝書らしく、天保九(一八三八)年の日付とともに押印、花押が記されています。九十箇条にわたる口伝の技の名称と急所の人体図だけで、具体的な内容については今後の調査を待つことになりますが、増田家が武芸に力を注いでいたことをうかがわせ、写真の人物が発する気魄とも通じるものがあります。

 明治維新後、加賀、大聖寺藩士の多くは職を失い、明治十六(一八八三)年に岩内郡前田村(現・共和町)に入植した起業社など北海道に新天地を求めた例がいくつかあります。太田兵村に入植した大聖寺藩出身の屯田兵は、四十八戸にのぼり、後に出身地の名にちなんだ家族会「江沼会」を結成するなど、団結力を見せました。しかし、地味が悪く気象条件も厳しかったために開墾は進まず、現役三年間を終えると半数以上の家族が転出したとされています。


決意新たに「拓」と改名

小学校教師に転任


 
二十歳で家督を相続した亀吉氏は、入植から三年後の明治二十六(一八九三)年、名前を拓と改めました。祖父の改名について増田さんは「石川県から北海道に新天地を求め、生まれ変わった気持ちで開拓に打ち込もうとした強い意志を感じる」といいます。戸籍を見る限り、九人家族のうち男手は父、叔父、弟と自分の四人で、比較的恵まれている方でしたが、やがて開拓をあきらめて小学校の教員に身を転じました。増田さんは「大聖寺藩時代に学問を身に付けていたのでしょうか。それが役に立ったのでしょう。父から当時の事は多くは聞いていませんが、山林を売り払っても砂糖一斤(約六百グラム)分にしかならなかった、という話を聞いたことがある」とのことです。

 亀吉(拓)氏の妻・真砂さんは、同じ兵村の屯田兵・乙崎佶氏の妹で、三人の妹はいずれも屯田兵の家に嫁いでおり、太田兵村にとどまる限り苦労が続いたものと思われます。また、幾五郎氏は明治四十(一九〇七)年に加賀市で亡くなりました。二人の子供は、ともに鉄道マンとして勤務し、大正十一(一九二二)年に拓氏が厚岸町で亡くなると、太田兵村とは徐々に疎遠になっていったそうです。


士族屯田兵の「心のよりどころ」


 増田さんの下で祖先につながるものは、写真と巻物だけとなってしまいました。いずれも偶然に廃棄処分を免れて残ったものでした。それだけに、八十六歳となった今も強い思いを感じているそうです。

 「武士の誇り、屯田兵の開拓魂を伝えるご先祖の証、我が家の家宝として後世に伝えていきたい。もし、写真が『北海道の宝』とも言えるものならば、博物館などで保管・展示してもらう道も考えなければならない」

 特に、写真については、士族屯田兵の精神的よりどころを示すものでもあり、貴重な歴史遺産として大切にしていただきたいと思います。

              (記・梶田博昭)


 
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