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子思孫尊2-1

 



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  「武士の誇り」伝える太田屯田兵三世

     増田 秊 さん

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 大刀をドンと床の絨毯に突っ立て、周囲を睥睨する眼光はギラリと鋭い。月代の入らない総髪に細い髷は、京の都で若武者の間に流行したという幕末スタイル。黒足袋に浅めの革靴、右手には敵刃を躱すための防具らしきものを携え、実戦モード満々の気魄が伝わってきます。

 そんな武士像が鮮明に描かれた小さな板ガラス(縦十センチ、横七センチ、厚さ一・九ミリ)が、増田家の仏壇の引き出しの奥から出てきました。明治二十三(一八九〇)年、石川県から太田兵村(現・厚岸町)に入植した大聖寺藩ゆかりの四十八名のうちのひとり・増田亀吉氏(後に拓と改名)の遺品で、妻の真砂さんが大切にしていたものでした。

 孫に当たる秊さんは「子供のころに見た記憶が甦ってきました。由緒など全く聞いていませんが、祖父の拓が懐にしのばせて故郷から持ち込んだものに違いない」と感じたそうです。


幕末に正装で撮影「北海道の宝」


 職員として定年まで務めた芦別市の「星の降る里百年記念館」の長谷山隆博館長に調査を依頼したところ、いろいろなことが分かってきました。

 第一に、写真は幕末から明治初期にかけた時期に多く使われた湿板方式のアンブロタイプと呼ばれるものでした。撮影直前にガラス板に液状の感光剤を塗り、撮影後すぐに乾燥させる技法で、古写真研究家の森重和雄さんによると「慶応年間(一八六五~六八年)に京都か大阪の職業写真家によって撮影された可能性が高く、北海道の宝になる貴重な写真」とのことです。

 写真の人物を子細に見ると、羽織は羽二重の黒紋付で、内側には縦縞模様の長着、袴は平織り三色の縦縞模様が入り、武家社会の礼装に近い。羽織の紋は「石抜き地持ち七宝に花菱」と見られ、増田家に伝わる家紋によく似ています。太刀は全長約百三十センチで、刀身は八十六センチ程度と推定されるそうです。防具は、刺し子に皮を張った籠手と見られます。 

 第二に、月代の入らない総髪に代表される武士の容貌から、「二十歳前後の若武者」と推測できるそうです。では、この人物はいったい誰なのでしょうか

 増田さんは、除籍簿などをたどった結果、「曾祖父の増田幾五郎ではないか。屯田兵の拓が他人の写真を持っているはずがないから、大聖寺藩士であった父親の写真である可能性が高い」と推測します。


京都警護に当たった大聖寺藩


 増田亀吉(拓)氏を戸主とする戸籍簿によると、父・幾五郎氏は弘化四(一八四七)年、大聖寺藩(現・石川県加賀市)の下級武士だった彦三郎の長男として生まれ、亀吉氏が屯田兵となる直前の明治二十三年(一八九〇)年五月に家督を譲って隠居しています。写真が撮影されたと見られる慶応年間といえば、幾五郎氏は十八~二十一歳に当たり、写真の人物の容貌とほぼ合致します。

 
では、その時期における幾五郎氏と京都あるいは大阪との接点についてはどうでしょうか。カギを握るのは加賀藩の支藩である大聖寺藩の幕末期の動向です。

 宗家の加賀藩は元治元(一八六四)年、幕府より京都警護を命じられ、七月十九日の禁門の変では御所西側の清和院御門の備えに当たりました。慶応三(一八六七)年の大政奉還後は藩主自ら京都入りし、翌四年の鳥羽伏見の戦い以降は幕府勢力から新政府へ身を転じました。大聖寺藩は概ね加賀藩の行動に追従し、御所や二条城などの警護に当たったとされます。

 幕末期に幾五郎氏がどんな立場にあったかは明確ではないけれども、加賀・大聖寺藩による京都警護隊の一員として、一定期間都に滞在した可能性はあります。上級武士に比べて下級武士が撮影された写真は極めて少ないといわれますが、緊迫感が伝わってくる写真を見ると、「決戦近し」という状況下で屋外に設けられた簡易写場に足を運んだのではないか、とも想像できそうです。