北海道屯田倶楽部

特集

子思孫尊2-2

 





ユリの品種改良に心血注いだ

屯田兵二世の仂


 次に紹介するのは、瑛子さんの父であり、屯田兵・小山雛助の嗣子である小山仂です。この人が屯田兵屋を後世に伝えるための活動を行った中心人物であります。

 東旭川兵村からは、末武安次郎はじめ、馬力による唐笠回し機を発明した吉峰吉次郎、加藤隼戦闘隊長の加藤建夫、屯田兵絵巻を著した広澤徳次郎らが多数輩出されているため、小山仂の名前は東旭川以外ではあまり知られていないのかもしれませんが、非常に個性豊かで魅力的な人物です。



 小山仂は、旭川屯田兵ゆかりの旭川小学校を卒業後、旭川中学校(現旭川東高校)、北海道帝国大学(現北海道大学)へと進み、勉学に励みました。北海道、さらには、国を牽引する人材になってほしいと願う父・雛助の期待を一身に背負ってのことでしょう。しかし、当時不治の病と言われた結核を患い大学を中退、夢破れて帰郷、五年間の療養生活を送りました。仂が著した『農魂』の中に、こんなくだりがあります。


 「この五か年の病床から得た私の財産は貴重なものだと自負している。それは、自分の生命は自分だけの孤独なものではないということ。身近な親の愛や万物の恩恵や時間を超越する宇宙の愛情などである。そして、物やものごとの皮相にとらわれず深層を見る習慣が身についたことであった。えらそうなことを書いたが、少なくとも財産や名誉などにとらわれない、そして自然とともに生きる余裕のようなものができてきた」

 その後に歩む仂の人生は、この言葉に裏打ちされたものでした。療養から復帰後は、一時期、農業協同組合の役員、町会議員等の公職にも就きましたが、平成十二年に満九十一歳で逝去する直前まで生涯の大半をユリの研究に捧げました。

 先の大戦前まで、日本はユリの生産で世界をリードしていましたが、戦中から戦後の混乱の中で日本の生産は一気に低迷してしまいました。そんな中で立ち上がったのが、東旭川村に住む仂だったのです。

 当時、ユリの花色の主流は白で、主に弔事向けでしたが、彼には壮大な夢がありました。

 「これからは平和な時代が来る。まだ地球上に存在しないピンク色のユリ花の品種改良に成功した場合、結婚式などの慶事だけではなく、色々な場面で使う事が可能になり、その需要は莫大で、億円、いや、兆円単位の需要があるはずだ」

 父から受け継いだ田圃を畑に切り替え、ユリの品種改良の研究を開始したのです。昭和二十一年、三十六歳のときでした。


 仂は北海道帝国大学在学中にユリの研究に携わってはいましたが、ほとんど素人といって良いレベルで、田圃を畑に切り替え、ユリを研究・栽培するという決断は、常人では考えられない行動です。

 限られた誌面の中でその多くを紹介できませんが、研究にかける執念たるや凄しいものがありました。一例をあげれば、田圃であった農地を、ユリ栽培に適する畑地にするだけで五ヵ年の歳月をかけています。来る日も来る日も、田圃に埋まる石ころを取り除きました。その時に搬出した石ころの山が現在も畑の片隅に残されています。


 瑛子さんが見せてくれたファイルには、ユリに関する沢山の新聞記事の切り抜きがありました。当時、仂が行っていたユリの研究は、東旭川の地域にとどまらず、北海道の園芸農業における革新的な取り組みで、全国的にも注目を集めました。やがて幾年月かの歳月が流れ、ついにピンクのユリ花の栽培に成功しました。しかし、当時、ユリ花の研究は世界中で競うように行われており、そこには市場原理が働き、仂の研究成果は事業として実を結びませんでした。


 現在、北海道ではユリの栽培だけではなく、富良野のラベンダー、上湧別のチューリップ、当麻の菊、北竜のひまわり、江部乙の菜の花など各地で色々な花の栽培が盛んに行われ、地域おこしに一役買っています。仂の努力が、これらの事業の土台となり、生産に弾みをつけたのは、確かだと思われます。

 仂の研究成果の結晶とでもいうべき各種ユリの球根をはじめさまざまな草花の貴重種は、旭川市の農業センターに寄贈されました。現在も同センター花菜里ランド(神居町雨粉)の「山野草保存園」で、その遺伝子を伝えています。

 次に瑛子さんご自身ですが、父・仂が日ごろ子供たちに言っていた言葉は、「なんでもやりなさい。努力をしなさい。そうすれば自然と人が集まってくる」だったそうです。

 



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  屯田兵屋を守り続ける旭川屯田兵三世

     武田 瑛子 さん