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  屯田兵屋を守り続ける旭川屯田兵三世

     武田 瑛子 さん

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  平成二十六年六月二十二日、東旭川兵村名残の屯田兵屋で、旭川兵村記念館と兵村記念館友の会の協賛による「見学会・旭川兵村の探索」が開催されました。屯田兵三世の武田瑛子さんが管理する「小山雛助の兵屋」に集まった人は五十人余り。地元旭川市民だけではなく、遠くは士別からの参加者もおり、年配の人に混じって若い人達の姿も見られました。主題は、屯田兵屋と宅地の開拓状況について語り、調査するというもので、兵屋と後方に広がる一町五反(四千五百坪)の給与地が入植当時の姿を留める形で残されていたからこそ、参加者に臨場感をもって伝えることが出来たように思います。兵屋の周りには開拓期に建てられた納屋や蔵、樹木・草花がほぼ当時のままの姿で残り、鍬や鎌を手にした屯田兵とその家族が、今にも飛び出して来るような錯覚さえ覚えました。


小山家の暮らしとともに110年


 兵屋は明治二十五年、香川県高松伊奈郡塩屋(現高松市)出身の屯田兵、第三大隊第三中隊の小山雛助に給与されたもので、和式木造切妻平屋建て、床面積十七坪五合、壁は板壁一枚の粗末な建物でした。この建物で雛助とその家族(父母、兄、弟二人)計六人が暮らし、明治四十二年に蔵が、昭和十二年に兵屋に連接して住宅が増設されました。所有者も屯田兵の小山雛助から瑛子さんの父・仂さんへと引き継がれ、平成十二年まで一一〇年間、小山家の人達が生活する場として使われていました。三世である瑛子さん自身も、結婚し武田家に嫁ぐ昭和三十三年まで住んでいたと言います。増築された住宅は、当時、渡り廊下を介して兵屋につながっていましたが、今は取り外されています。また、改造時期は不明ですが、屋根は柾葺きからトタンに変わり、玄関扉、無双窓、戸窓にはガラスが入れられています。


 瑛子さんによると、増築された住宅は寝室に充てられ、兵屋の四畳半の畳部屋は台所に改造され、土間から立ち上がった板の間に続く六畳間は居間として家族だんらんの場になっていたそうです。ネズミが出るのは当たり前で、時々ヘビも出没したそうで、寒さは想像以上のものだったと思われます。

日露戦争で九死に一生

東旭川の発展に貢献した雛助


 旭川兵村記念館の展示品の中に、胸の部分に穴のあいた綿入りのチョッキが遺されています。これを着ていたのが小山雛助で『旭川兵村記念館資料説明』には次のような記述があります。

 「日露戦争に出征した時に、雛助の奥さんが満州は寒いところなのでと心配して送ったものです。小山さんは北陵で負傷し、ロシア軍の野戦病院に収容されていましたが、ロシア軍は退却をするときに、日本人負傷兵を次々と銃剣で刺殺しました。小山さんもレンガの壁に押し付けられて十七か所も刺されたそうです。ところが、剣の先が曲がっていたのと、真綿のチョッキを着ていたのとで剣が通らなかったそうです。倒れているところを二時間後に日本軍に助けられ凱旋することができました」


 少し誇張もありそうですが、雛助は名誉の負傷を負ったものの運良く凱旋しました。その後は「六十町歩を経営する大地主になり、村会議員にもなって大活躍をした」と説明書きが続いています。日露戦争が終わった明治三十八年は、下東旭川兵村の屯田兵・末武夘之助の父である安次郎が水稲直播機「たこ足」を発明した年でもあります。このころから、東旭川兵村において米の生産量が飛躍的に増大して行きました。

 雛助には父と三人の兄弟がいました。以下は推測ですが、一家に男手が五人あるということは、開墾にとって大変有利なことです。家族が力を合わせ、木を伐り田畑を耕していったのでしょう。そして、東旭川兵村が推し進めた灌漑溝の建設と耕地の田圃化を率先して行い、さらには、離村した人達から土地を購入し耕地面積を増やしていったのでしょう。東旭川の発展に尽くした屯田兵の一人として、歴史に残る人物の一人と言えます。