北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊2-2
開拓の碑に刻まれた
「赤蟻の遺訓」胸に
―移住百年碑には「母言葉ヨリ」として訓戒のような文字が刻まれています。もしかしたら、この方がスノさんですか?
開拓の碑に刻まれた「赤蟻の遺訓」胸に
「私の父・清一が建てた碑ですので、父にとっては母であるスノの言葉が、よほど重たいものだったのでしょう。
発寒開拓六十五年
赤蟻多キ柏木原
肩迄登リ数多ク
体傷メド払フ手
惜シム開拓ノ鍬
赤蟻は普通見かけるアリよりも大きく、そいつが手から腕を伝って肩まで登って来るのです。放って置くとひどく咬まれるのですが、それを手で振り払うひまもなく開拓に精魂傾けた、といった意味だと思います。これは母だけでなく、三戸部家の屯田兵の血を引いた者すべてに向けた遺訓だと思っています」
―開拓は自然との闘いだけに、ほかにもお父様やお爺様からいろいろ聞いていらっしゃるのではないでしょうか?
「明治三十一年か三十二年ころ、曾祖父か祖父の体験談だと思いますが、給与地の畑でトウキビを収穫して戻ろうとしたときのことです。トウキビをかます(むしろ製の袋かご)に詰め込んで背負ったのはいいのですが、どうしても重くて立ち上がれない。何か変だと振り向いたら、クマがかますにもたれかかってトウキビに食らいつこうとしていたのだそうです。幸い襲われることはなく、『おとなしいオヤジで助かった』とか『まずい物ばかり食っている人間には食欲がわかなかったのだろう』といった笑い話が語り継がれています」
「父の話を聞いていると、やはり、一大決心で勘吉が北海道に渡ったのは、『北の備え』としての屯田兵の使命に共感したから。北海道開拓の先駆けとなることは勿論として、この使命感が大きな誇りでもあったし、誇りは後々まで継いでいきたいということでした」
(写真は西南戦争における三戸部勘吉氏の勲功を讃える賞状・『琴似屯田百年史』より転載)
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私設博物館長の琴似屯田兵四世
三戸部 清美 さん