北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊2-1
私設博物館長の琴似屯田兵四世
三戸部 清美 さん
1
開拓遺産を父子で受け継ぐ
まるで鎮守の森に迷い込んだかのようだった。そこには表通りの喧騒もアスファルトの照り返しもない。揺れる木漏れ日と、かすかな虫の羽音だけが、時間を刻んでいる。
どうやら発寒の杜の主は、中央にどんと御座します巨木のよう。大人二人で両手を伸ばしても抱えきれないほどの太い幹は皺深く、梢の先は生い茂る「天狗の団扇」に隠れて見えない。
―この木は自然木?
「樹齢は百五十年くらいといわれるセンノキです。昭和十六年生まれの私などひ孫のようなもの。恐らく曾祖父が屯田兵として仙台からやって来た当時からあった原生林の一本でしょう」
―センノキといえば、内地のものに比べて桁外れに大きいため、屯田兵ら入植者が驚いたという話が残っています。また、肥沃な地味を好む樹種なので、開拓地探しの目印にもなったそうですが、やはり発寒のこの地は農業に適した一帯だったのでしょうか?
「昔からこの辺りでは、線路(現・函館本線かつては幌内鉄道)より上の西野などは砂利が多くて住むのには良いが、畑をやるなら線路より下といわれていました。それに水にも恵まれていました。もっとも、開墾当初は大変だったようです。私の子供のころでもまだ周囲に原始林があってカシワやドングリの木、白樺など自然の木が鬱蒼と茂っていました。入植直後は、チェンソーもない時代ですから一本一本大きな鋸で切るわけです。しかし切っても根っこは残るので、これがとても厄介だった。それで、ときには手っ取り早く火を付けてしまうこともあり、日が暮れても真昼のように明るかったという話も聞きました」
―昭和四十九(一九七四)年に、お父様で屯田三世に当たる清一さんが敷地内に建立された「琴似屯田兵移住百年」の記念碑の裏には、作物の名前が刻まれていますね。
沃野の象徴センノキが
見守る発寒の140年
「亜麻、菜種、麦酒、麦、西瓜、野菜、それに鮭美川の美水より水田、馬、牛…。亜麻などは随分苦労したようです。亜麻は軍事用資材としても利用されたので、盛んだったとは聞いていますが、私の記憶にはありません。ホップに関しては、私が学生だった戦後間もないころまではビール醸造用に栽培していたことは覚えています。よく円山の朝市に運んだのは、キャベツ、人参、馬鈴薯、秋には大根の葉も市場に出しました。ここに刻まれている鮭美川というのは、すぐそばを流れていた川で、月夜の晩に遡上してきた鮭があまりに美しかったので父が名付けました。川はすっかり姿を消しましたが、鮭美橋という名のバス停もありましたし、アパートにも鮭美の名前が残っています」
(写真は昭和20年代の発寒の田植え風景・三戸部氏提供)
―琴似屯田兵は最初の屯田兵ですから、ほとんど実験的にいろいろな作物に挑戦し、失敗も多かったと聞きます。この発寒の土地は、給与地ということですか?
「曾祖父の勘吉は、亘理藩士でしたが、禄を失いどん底生活の末に、伊達紋別に入った同郷の移住者の話を聞いて屯田兵に志願することを決意したと聞いています。西南戦争の勲功で金十円を下賜された賞状も残っています。新川に給与地をもらい、勘吉の六男で、私と同名の祖父・清美は、明治四十三年に分家したときに五反(約五十アール)余りの土地を手にしたそうです。この土地の開墾は、大正の末までに完了したのですが、他人の借財を背負い込んだことから、終戦後まで小作で生計を立てるなど苦労が続いたようです。清美の妻で私の祖母であるスノは、けして保証人にはなるな、といった内容の遺書を残しています」