北海道屯田倶楽部

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子思孫尊2-1

 



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  美唄出身のバイオリニストは屯田兵四世

     杉田 知子 さん

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 すすり泣き、叫び、そしてときには乙女のため息のように―。

 豊かな表現力を持つバイオリンは、人の声に最も近いオールマイティな楽器と言われています。独奏で聴衆の心を虜にするだけではなく、大ホールでは最前列に並んでオーケストラの演奏をリードします。また、クラシックからポップス、ジャズなどジャンルを問わず、他の弦楽器や管楽器と競演。さらには朗読や舞踊とのコラボレーションなど、この小さな弦楽器による表現の舞台は、無限の広がりを見せます。

音楽を通して

心の響きを伝える




 そんなバイオリンの奏者として札幌を中心に道内外で活躍する杉田知子さんは、美唄市生まれの茶志内屯田兵家族四世でもあります。

 歴史研究仲間の集まりで杉田さんと知り合って以来、何度かコンサートを聴く機会がありました。会場は札幌の豊平館の舞踏場であり、時計台のホールであり、小樽の能楽堂、美唄の野外彫刻公園アルテピアッツァ、そして、ホテルの大ホールであったりとさまざまでした。

 コンサートを聴く度に、強く感じさせられたこと。それは、巧みな演奏と流麗な音色で聴衆を魅了するだけではなく、奏者と聴き手の心を通わせ、会場の空気を一つにさせるということです。恐らくは、演奏とともに人間・杉田知子の内面から沸き出てくる感性と人柄が、コンサートホールを一つのコスモスに変えるのだと思います。


屯田兵が拓き

石炭で栄えた街に生まれて


 杉田さんの先祖は、明治26(1893)年に茶志内屯田兵として入植した兵屋番号八五番・大角寿三郎さんの弟の大角健一さんで、そのルーツは愛知県だそうです。


 茶志内屯田兵は、特科隊(工兵、騎兵、砲兵)の中の工兵隊で、明治24(1891)年から同27(1894)年までの4年の歳月をかけ、沼貝村(現在の美唄市)の北部、奈井江と接する地域に120戸が入植しました。

 特科隊3個兵村(計400戸)が入植した地域は、上川道路(現・国道12号)に沿って縦長に南北15キロにも延びており、このような例は、他の屯田兵入植地には見られません。その理由は、石狩川左岸と現在の函館本線の鉄路に挟まれる兵村の西側一帯がひどい泥炭地で、反対の東側は夕張山系につながる丘陵・山岳地帯であったためです。茶志内兵村の兵村配置図を見ると分かるように、兵村は虫食い状態で、所々に入植不能地が点在していました。また、「頻繁に熊が出没した」と美唄市史に記されているように、兵村のあった地域は、夕張山系の裾野に当たる密林地帯で、そこは熊などの獣たちの格好の棲家でもあったのです。残された歴史資料からは、茶志内屯田兵とその家族らの開拓の苦労がしのばれます。

 しかし、明治30年代になると、美唄付近の山地内で石炭の採掘が始まり、大正から昭和の初めころには三菱、三井など本州の財閥企業が進出、最盛期の昭和29(1954)年には人口約9万人を有するまでに発展しました。当時は、ロードショウが札幌よりも早く封切られたというほどに賑わっていましたが、エネルギー政策の転換などにより昭和40(1965)年前後から炭鉱閉山が相次ぎ、現在の人口は2万5千人までに減ってしまいました。