北海道屯田倶楽部

特集

子思孫尊2-1

 


緑さわやかな

初夏の和田村を行く


 これまで5回ほど訪れた和田の風景は、目をつむれば瞼の裏に映し出されるまでになった。一号通り、二号通りと呼ばれた兵村の基線道路を走った時に車窓に流れる牧場の風景である。

 国道44号線を根室市街へ向けて走ると温根沼にかかる赤い鉄橋・温根沼大橋が見えてくる。橋の先に、直進すると根室市街、右に向かうと西和田を示す道路標識がある。そこで右折し、西和田へ向けて坂を上って行くと、最初に見えてくるのは防風林の並木で、やがて洒落た作りの海星小中学校の校舎が目に入ってくる。


 左右の視界には牧草地が広がり「福田牧場」、「岩佐牧場」の看板が道路沿いに立っている。さらに進み、根室から落石へ通じる根室浜中釧路道(道道142号線)と交差する所には「駒澤牧場」があり、右手には海星小中学校に統合される前の旧和田小学校の建物が残っている。すぐ脇にある和田屯田記念館(旧和田屯田兵の被服庫)は、明治19(1886)年に建てられたバルーンフレーム構造の古びた建物で、外壁を添え木に支えられながら風雪に耐えている。すぐ近くには、無人駅のJR西和田駅とサイロを携えた「矢部牧場」がある。



 反転して道々を根室方向へ進むと、東西の旧兵村の境に和田神社があり、隣には「市橋牧場」がある。大隊本部のあった場所には「松下牧場」があり、牧場入口の〝しこたん松〟は、屯田兵が植樹した当時の姿を留めている。

   

 このように、旧和田兵村の主要幹線道路の両脇に屯田兵子孫の人達が経営する牧場の建物があり、付近一帯はよく手入れをされた牧草地が広がっている。所々に深く切り込まれた谷があり、そこには深緑色の灌木が密生し、淡い牧草の緑と調和して美しい景観を提供してくれている。


 高台からは、北東方向に根室市の街並みが望め、奥には根室湾が広がる。天気が良ければ知床の峰、国後島の山並みも遠望できる。南手に降りて行った先に花咲港があり、西方向、落石方向へ向かうと、長節、昆布盛、落石等の漁港がある。その道路は追給地、公有財産地のあった別当賀から厚岸まで続く。

和田の牧場風景は、都市近郊型の牧場と言うのか、根室市の町並みがすぐ近くまで迫り、大酪農地帯と言われる別海などとは少し趣が異なる。

 現在の和田兵村とはそんな所である。


屯田四世に見た団結心


 今回の和田訪問の目的は、我が師として慕っていた西和田屯田兵三世の島治雄氏(平成25年4月18日逝去・前北海道屯田倶楽部相談役)の御霊前に線香をあげること、併せて和田屯田兵子孫の皆さんからお話をうかがうことだった。着いた日の夕は、、中村英夫会長のご好意により和田屯田歴史保存会の方たちと懇談の機会を得た。一人を除いて屯田兵四世の酪農経営者で、猫の手も借りたいほどに忙しい中、時間を割いてくださったことに感謝・感激、申し訳ない気持ちでいっぱいである。


 子孫の皆さんのお話をうかがううちに、少しは和田の人達の気質を感じ取ることが出来たように思う。何よりも皆さん仲が良いのには驚かされた。高校時代のクラスメートが集まった時の感じであった。この雰囲気は他の屯田兵入植地の子孫の方達の中にあるのだろうか?この団結はどこから生まれてくるのだろうか?そんなことを宿に戻ってから考えた。



 酪農の仕事は生き物が相手であり、牛を育てるためには細やかな心遣いが必要で、そんなところから団結心が生まれるのかも知れない。翌日、屯田兵ゆかりの海星小中学校の運動会があり、子孫会のメンバーの多くは応援に行くと言っていた。朝の搾乳の仕事を終え、あわただしく準備を整え、ビデオカメラを片手に馳せ参じたのだろう。運動会が終われば、午後から夕方にかけて牛の世話が待ちかまえている。


 ここ和田村にあっては、たかが運動会と思うのは間違いで、運動会は村の一大行事である。その昔、統廃合する前の和田小学校の頃は、父兄がエキサイトして、もめ事にまで発展したとうエピソードもあるらしい。


 そう言えば、和田の人たちのほとんどは和田小学校の卒業生であるから、同級生であり、先輩、後輩という関係の中に団結の原点があるのかも知れない。冠婚葬祭、神社のお祭りは屯田兵子孫の人達が一堂に会する場である。また、農協や酪農関係の集まりなどを考えてゆくと、和田村の人間模様が少々理解できそうに思える。


 運動会の種目は多彩で、ユニークなゲーム感覚のものも用意されていた。特に印象に残ったのは、進行係でもある先生のアナウンス。「○○チャンが走っています」「○○チャン、頑張って」と言う風に固有名詞が飛び交い、なにか微笑ましく、人の温かみが感じられるものだった。

 



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  和田兵村の給与地を守り抜く

    16軒の牧場経営者

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 屯田兵は、明治8(1875)年の琴似を手始めに、明治32(1899)年の剣淵・士別まで計37兵村、26地区に入植した。そして、琴似入植から138年、剣淵・士別の入植から114年が経過した現在、それぞれの入植地は地域の発展とともに大きく変化し、兵村の面影を残す入植地は少なくなってきた。

 そんな中にあって、和田村(根室市)は、屯田兵に与えられた当初の給与地を子孫の方達でしっかり守っている特異な例である。その数16軒。いずれも酪農の経営者で、三世から四世へと引き継がれている。和田屯田兵だけにしかない開拓の歴史と、地域を支えている子孫らの姿を紹介する―。