北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊2-1
琴似屯田兵の末裔は
歴史の迷宮の案内人
―屯田兵4世とうかがっていますが、ご両親などから当時の様子などをどのように聞いていますか?
1875(明治8)年5月に斗南藩から琴似に入植した岡村サダが、母方の曾祖母に当たります。当時まだ若かったサダは、屯田兵のおじの岡村吉太に連れられて移住し、その前後に、東北から勘助を婿養子に迎えたと聞いています。この機会に入植の経緯などを詳しく調べてみたいと思っています。
教育熱心は会津士族の血統であり誇りだった
会津から青森の斗南、そして琴似へと移り住んだ苦難の歴史は、さまざまに語られ書物に記録されていますが、私が母の話などから体験的に感じ取ったのは、会津士族のプライドの高さですね。そのあらわれが学問で、母は「教育ママ」のハシリみたいな人でした。祖父が北海道帝国大学の医学部会計課長だったということもあって、西高から北大というラインを引き、中学1年生のときに私が生まれた室蘭から札幌に転校させられました。琴似の母の実家での暮らしを始めたわけです。
―藩校・日新館に象徴されるように会津は教育熱心でしたから、その伝統でしょうか。琴似の実家というのは、屯田兵時代からのものでしょうか?
住所は琴似2条6丁目で、通りの向こうに琴似神社がありました。兵村配置図(下)では、神社に向き合った中隊本部(現在の西区役所所在地)に接して兵屋番号72番に岡村吉太の名前がありますから、入植以来の土地だったと思います。建物は兵屋の跡に1926(大正15)年ころに新築したもので、私が住んだ1960年代には2階と奥の離れもあって、そこに北大生3、4人が下宿していました。
勉強の方は母の思惑とは違って、私は受験勉強よりも魯迅やチャップリンらの思想や生き方に興味を持ち、本を読みあさりました。下宿の北大生の影響からクラシック音楽にもはまって、高校のオーケストラ部でバイオリンやクラリネットを演奏しました。母には申し訳なかったが、この時代を受験受験で明け暮れる生き方には満足できなかった。
サッポロ堂書店・店主
石原 誠 さん
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再開発が進む札幌駅北口にほど近い一軒の古本屋。引き戸をガラリと開けて、一歩踏み込む。まるで結界をくぐり抜けたように、都市の喧噪は背後に消えた。整然とも見え、雑然とも映る膨大な書物の山が、何かを語りかけてくる。百年、二百年―文字すらなかった時空にまでいざなうように。そんな歴史という名前の迷宮の案内人は、ごま塩の混じったひげ面に琴似屯田兵の風格を漂わせていた。