北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊1-2
(札幌市の有形文化財として保存公開されている第三中隊本部=新琴似8条3丁目)
―その黒田家の血筋について「私は三・五代目かな」と「屯田(第46号)」に書かれていますね。
七代にわたって家督を継承
初代に当たる黒田熊次郎は、弟の弥熊を伴って新琴似に屯田兵として入植しました。熊次郎が早世したため、婚約者の大久保ウタの兄で、同じ鹿児島出身の屯田兵・大久保喜一郎の末弟の毅が家督を継ぎました。その毅が長じて船乗りとなり、やがてビルマで病死したことから、大久保家の次弟・彦熊夫婦が子どもを引き連れて黒田家を継承したのです。
したがって、明治憲法に基づけば、私の祖父である彦熊は、熊次郎、毅に次ぐ三代目。祖父の後は、長男・敦を経て次男で私の父に当たる等が継ぎました。今の憲法になってから母・淡子が継ぎましたから、母が六代目で私は七代目。これを旧来の家制度でなく現在の民法に沿えば、熊次郎から祖父・彦熊の間に親子関係がないので三・五代と自称しているわけです。
先祖の地は鹿児島県姶良郡帖佐鍋倉村(現・姶良市)で、熊次郎、弥熊兄弟は黒田清隆の従兄弟というほかは、何一つ伝えられていません。おばあちゃん子だった私は、大分県の旧中津藩から新琴似に入った山崎格治の娘で彦熊の元に嫁いだ多栄から聞かされた話が全てです。ともかく「武士の出」というプライドが高かったことは強烈な印象として残っています。大変な教育熱心で、娘は「金持ちか学のある者に嫁がせる」という考えを徹底していました。六人の叔母は皆、女学校を出ましたし、父も旧制一中から北大に進みました。私はできが良くなかったけれども、祖父母の孫には病院長、校長、社長がいますし、ひ孫に至っては五人の医者をはじめ東大、京大卒もいますから、祖母は天国で満足していると思います。
―明治23年に起きた中隊本部襲撃事件は、首謀者として熊次郎さんに無期刑が言い渡されたものの真相については諸説あるようです。祖母の多栄さんからは何か聞いていますか?
祖母が語った襲撃事件の「真相」
小中学生のころに何度も聞かされました。その話によると、悪者は中隊長で、給与米をくすねた。それを知って憤った者たちが一団を組んで襲撃した。首謀者はほかにいたが、家族持ちだった。家族がいなかったのは熊次郎だけで、正義感というか義侠心みたいなものから首謀者として名乗り出た。後は弟の弥熊に託した。これをいやというほど聞かされました。
大人になってから自分なりに知識を得て、「そんなに単純なものではなかったのでは」と思うようにもなったけれど、事件当時に多栄は物心つく歳になっており、ある程度の真相は知っていたと思います。
―おばあちゃんとしては義憤から出た行為で、汚名をすすぎたいという思いがあったのでしょうか?
汚名といった感覚はなかったと思います。事件後に黒田家の者が周りから疎外されたということも聞きませんし、私自身も、「罪人の子孫だから」といった目で見られたこともなければ、その逆を感じることもありませんでした。私なりに真相を推理したこともありますが、上官を襲ったことは歴史的事実ですし、黒田清隆につながる人物として熊次郎が死刑を免れたのもどうやら真実だと思っています。清隆の縁者なので裁く側が困ったという話は、書物でも読んだし、おばあちゃんからも聞きました。
いずれにしても、この事件は積立米どうこうというよりも、もっと複雑な事情が絡んで起きたことだと感じています。特に、琴似と山鼻の屯田兵が官軍として出征した西南戦争(明治10年)では、西郷隆盛ら旧薩摩藩の出身者らが打ち負かされました。九州には旧豊津藩士ら西郷軍に与する者もいれば、官軍・征討軍には同じ薩摩出身がいるなど、いわば隣同士で殺し合いをしたのです。新琴似兵村には、負けて職なくて流れ流れて屯田兵に応募してやって来た者もいたでしょうから、何か遺恨のようなものを引きずっていた可能性はあると思うのです。
新琴似・黒田家当主
黒田 徹 さん
2
中隊本部襲撃事件
明治23(1890)年10月8日(8月18日とする史料もある)、第三中隊の安東貞一郎大尉が中隊本部にいるところを銃撃された。負傷者はなかったが、軍法会議により無期懲役の黒田熊次郎はじめ6人の屯田兵が処罰され、安東中隊長は謹慎処分となった。兵村記録には、屯田兵の生活苦を背景に扶助米の天引き貯蓄をめぐる兵員の不満が引き金になたと記されているが、詳細は不明。