北海道屯田倶楽部
特集
子思孫尊1-1
新琴似兵村の家屋番号106番―四番通りを挟んで第三中隊本部のはす向かいに、遠く鹿児島県から弱冠20歳の青年屯田兵が入植した。その黒田熊次郎の末裔は、今もこの地に暮らす。125年の歴史を経て、街並みは大きく変貌し、札幌市の有形文化財に指定された中隊本部とそれを包む森だけが、ひっそりと当時の面影を伝えている。そんな兵村の変遷とともに屯田兵たちの思いがどのように受け継がれ、子孫らは未来に何を託そうとしているのか、黒田家の現在の当主である徹さんにお話をうかがった。
土地にこだわり125年
祖母に教わった節操と誇り
ご自宅の玄関には「丸に並び鷹の羽」の家紋をかたどったプレートが掲げられ、下に添えられた「SINCE1887」の文字がどこか誇らしげ。
―明治20年の入植から125年たったこの街に屯田兵の匂いが残っているとすれば、どんなものでしょうか?
一つの象徴的な例があります。今現在、新琴似と呼ばれる地域にはラブホテルが一軒もない。この種の営業は、案外地元に古くから住んでいる人がやっているものですが、ここ新琴似では、言ってみると住民意識の中に根付いた「節操」みたいなものが働いていたのだと思います。「ここまではやるけれど、それ以上はやらない」みたいな。やはり、屯田兵としてのプライドみたいなものが、この土地にはずーっと息づいているのではないかと思っています。
確かに、私が生まれた昭和20年代には300戸ほどあった農家のうち屯田兵の血筋の方は20戸余りに減っていました。でも、そのほかの家は、屯田兵とまったく無関係であったわけではなかったはずです。屯田兵の開いた土地を引き継ぎ、屯田兵がどのように村を動かしてきたかを直に見てきたからこそ、彼らの「誇り」とか「誉れ」みたいなものも受け継ぎながら1世紀にもわたる歴史を刻んできたのだと思うのです。
―琴似町新琴似から札幌市新琴似町となった昭和30年代は、屯田兵ゆかりの人々が随分活躍したようですね。
行政の動かし方を熟知していた末裔たち
私が中学生のころに、北二十四条までだった市電を新琴似まで延ばしたのも、屯田兵というか新琴似の住民パワーでした。既に国鉄札沼線の新琴似駅がありましたから、市電が東区方面に延びてもおかしくなかったけれど、これがベースになって、地下鉄も麻生まで通ったわけです。当時は中学1年生で、開通記念電車の窓から旗を降りながら薄野との間を往復したのを今でも覚えています。北二十九条あたりの西側の札幌飛行場の跡地には戦闘機格納庫の残骸が残っていました。東側は牧場が広がっていたと思います。
(写真は昭和35年ころの黒田家の農地、右後方に新琴似小学校が見える)
―その「住民パワー」の核に屯田兵魂のようなものがあったということですか?
精神的なものというよりも、考え方だと思います。当時のリーダーたちは、行政の考え方をよく知っていた連中。菅さんを先頭にまちづくりに奔走した顔ぶれを見ると、九州諸藩の藩政を担ってきた武家の血を引く人々です。黒田家は薩摩ですし、私の祖母・多栄の山崎家(明治21年、山崎格治さんが新琴似入植)は大分県中津藩の末席家老の家柄だと、おばあちゃんからよく聞かされました。そんな血筋からか、御上とは反対の側にあっても、行政を動かすツボを心得ていたからではないでしょうか。
新琴似・黒田家当主
黒田 徹 さん
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