萩原藤太

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目次

プロフィール

萩原 藤太 (南一已 明治28年5月入地 佐賀県出身 兵屋番号359番)

出典元

 『屯田』第17号 < 『屯田兵座談会』(昭和18年)

要旨

  1. 三国干渉の時期、臥薪嘗胆で猛訓練した
  2. 銃は旧式、雪中で腰から下はズクズク
  3. 移住時の支度金について
  4. 最初に大麦、小麦、大豆の種を渡された
  5. 給与品について
  6. 兵員の死亡時は「官葬」だった
  7. 雑穀などを食べ扶助米を多数残した
  8. 出征中、家族が戸主以上に頑張った話
  9. 戦債はとにかく買う約束をした

証言内容

  1. 当時の操典のことは、全部記憶しているわけではありませんし、どういうふうに申しあげたらよいか迷います。とにかく中隊は、百戸をもって一個中隊としました(註:二十八年は百戸で一個中隊編成)。当時、内地の師団からきた五名の下士官と、当麻、旭川からきた上等兵の助手が加わって教育されたのであります。ちょうど、そのころは日清戦争後のことでありまして、あの三国干渉で遼東半島をもぎとられた際であり、「臥薪嘗胆」でやろうという時代であったため、屯田兵なるものはもともと兵農を兼ねるので、月の半ばは兵事にいそしみ、半ばは農事にいそしむ規定であったようですが、ほとんど月月火水本金金といったような猛訓練だったのであります。それで当時のわが大隊は、非常に精鋭を誇ったような状況でありました。
  2. 被服・武器ですが、小倉服一着、棒しまのシャツ一枚、ズボン下一枚でした。これで冬季でも訓練されたものです。雪中に入ると、身体のぬくみのため雪が解け、それが凍り、腰から下はズクズクになってもなんら意にも介せず、猛訓練をやったのであります。武器なども、かのダムダム銃の旧式のものが支給されてあったのです。まあ、だいたいをつかんでみると、そういうふうな状態であったと思います。
  3. 官給土地・被服・食料の状況について、ここにあらかじめ書いたものがありますが、細かいことを申し上げることは大変ですから、だいたいのことをお話いたしましょう。兵員が採用になり、こちらへ移住することになりましたときに、乗車・船賃と支度料として五円、旅費・日当三〇銭、荷物運搬料二円六〇銭支給されました。乗船地の滞在中、乗船から移住地到着までは官の賄いを受けました。なお当時、官は自分らの荷物を一戸につき八個を許され、一個の重量二貫目(註:九貫)まで許されて持ってくることができました。
  4. 土地は第一給与地四千五百坪、第二給与地一万五百坪。家屋は兵屋一七坪五合、木造マサぶきです。家具として布団四巾三枚、同三巾二枚、掛け鍋、手桶、荷桶二個、茶わん、ランプ(註:カンテラ)、唐鍬大小各一、ノコギリ大小各一、ヤスリ、それに四戸につきトウミー個が渡され、井戸は六戸に一か所になっていました。それから、移住の初めに亜麻種、馬鈴薯種、その他を渡されるのですが、私どもも大麦、小麦、大豆等を渡されました。
  5. それに扶助料、塩菜料を各兵村とも差異なく渡されたと思います。各戸につき一人七合五勺。すなわち一か月玄米二斗二升五合、塩菜料四五銭。これは一五歳以上六〇歳までの人(甲)です。六〇歳以上の人と七歳以上一五歳までの人(乙)には玄米一斗五升、塩菜料三〇銭。一〇歳未満の者(丙)には、玄米九升と塩菜料二一銭支給されました。普通の屯田はこれが三か年支給されるのですが、私の村では、最初の二年は各儀料を給され、それから三か年分を支給されました。その額は、扶助料玄米一斗三升五合、塩菜料三〇銭(註:いずれも一か月当たり)。乙は扶助米九升、塩菜料二一銭。丙は扶助米五升四合、塩菜料一五銭。これは第二期です。第三期は、満二か年間は一か月ごとに支給されました。甲は玄米七升五合(註:二升五合、塩菜料は七銭五厘)。乙は玄米三升、塩菜料四銭五厘。丙は玄米一升ハ合、塩菜料八銭(註:三銭)でした。
  6. そのほかに埋葬料として、移住後三か年間内に家族に死者があった場合、七歳以上五円、七歳未満二円五〇銭を支給されました。兵員死亡のときは、家族に埋葬料を渡されました(註:兵員の場合は官葬)。それで、自分の家で葬儀を行ったものです。
  7. 給与された状況は、『屯田兵及び家族教令』に最初に書いてありますとおり、政府の厚い保護を受けているのだから厳重に、とやかましく申し渡されたので、家族一同は一生懸命だったのです。滝川の原さんのお話では、扶訪米が不足したとのことですが、私どもの村では、扶助米は繰り延べ繰り延べで馬鈴薯、小豆、雑穀を食べ、扶助米を多数残しました。中隊長から受けとる扶助米は、これを他に売って貯蓄した者もあるような次第であります。被服については、家族は布団だけ。兵員に対しては小倉服が上下、冬シャツ棒しま上下一着、夏はその通り一着あて、ラシャの服も支給されました。だいたい、そんなところであります。
  8. この問題(註:日露戦争中のこと)については、私ども出征した者の苦労ばかりでなく、ご婦人方が留守をお預かりになり、当時、非常に緊張した生活をなされたという、有益な話を聞いたことがあります。私の友達が当時、役場へ出て戸籍係をしておったのでありますが、私が帰ってからその者から聞くと、兵員、戸主と申しおった、出征中、役場のすべての納金は滞りなく納め、公債等もすすんで買う。かつまた農業状態も、戸主がいるときよりいっそう良くやり、かえってよかったと聞きました。
  9. 国債は、日露戦争のとき何回となく、一億円くらい発行になりました。それを各町村に割り付けられるが、何とかして応募しなければならぬので、保証金百円について、わずかずつでも先に出してでも、とにかく買う約束をし、いったん役場から割り付けられた公債の責任額は消化したものです。

  

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