「新琴似中隊本部襲撃事件」を編集中

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[[ファイル:Sink tyutai.jpg|right|300px||新琴似中隊本部=2009年撮影]]
 
 
[[ファイル:Sinkotoni_haitizu.jpg|right|300px|新琴似中隊本部の配置図]]
 
[[ファイル:Sinkotoni_haitizu.jpg|right|300px|新琴似中隊本部の配置図]]
 
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[[新琴似中隊本部]]襲撃事件とは、新琴似[[屯田兵]]が入植して3年後の明治23(1890)年8月18日夜、第一大隊第三中隊本部(現・札幌市北区新琴似8条3丁目)の官舎にいた当時の中隊長・[[安東貞一郎]]大尉が銃撃された事件で、上官に対する暴行の罪に問われた7人の新琴似屯田兵が[[軍法会議]]で処罰された。給与米の一部を積み立てた備荒資金(積穀)の返還を求めた屯田兵と中隊長との対立が発端で、暴行事件のほか護送妨害で9人(うち2人は暴行との重犯)、命令違反で1人が処罰された。<br>
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[[新琴似中隊本部]]襲撃事件とは、新琴似[[屯田兵]]が入植して3年後の明治23(1890)年、第一大隊第三中隊本部(現・札幌市北区新琴似8条3丁目)の官舎にいた当時の中隊長・[[安東貞一郎]]大尉が銃撃された事件で、上官に対する暴行の罪に問われた7人の新琴似屯田兵が[[軍法会議]]で処罰された。給与米の一部を積み立てた備荒資金(積穀)の返還を求めた屯田兵と中隊長との対立が発端で、暴行事件のほか護送妨害で9人(うち2人は暴行との重犯)、命令違反で1人が処罰された。<br>
  
 
事件に関する公的文書が見つからないため、銃撃の動機や発生の日時など不明な点が多い「屯田兵唯一の反乱事件」とされてきたが、平成27(2015)年に公開された『[[屯田兵司令部月報]]』の記述から、[[軍法会議]]の宣告(判決)内容が明らかになった。宣告によると、米価暴騰による生活の困窮から「積穀下げ戻し」を求めた新琴似屯田兵は、220人中170人にものぼり、銃撃事件の前段で中隊長との交渉や衝突があったことも明らかになった<br>
 
事件に関する公的文書が見つからないため、銃撃の動機や発生の日時など不明な点が多い「屯田兵唯一の反乱事件」とされてきたが、平成27(2015)年に公開された『[[屯田兵司令部月報]]』の記述から、[[軍法会議]]の宣告(判決)内容が明らかになった。宣告によると、米価暴騰による生活の困窮から「積穀下げ戻し」を求めた新琴似屯田兵は、220人中170人にものぼり、銃撃事件の前段で中隊長との交渉や衝突があったことも明らかになった<br>
 
[[積穀事件]]、[[積穀騒動]]とも呼ばれた。<br>
 
[[積穀事件]]、[[積穀騒動]]とも呼ばれた。<br>
  
  (右の写真は新琴似中隊本部=2009年撮影、図は事件当時の周辺図)
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  (右の図は新琴似中隊本部の周辺図)
  
 
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== 暴行事件 ==
 
== 暴行事件 ==
 
[[ファイル:Misawa_nikki.jpg|right|200px|事件の様子を記述した8月20日の『三澤日記』]]
 
[[ファイル:Misawa_nikki.jpg|right|200px|事件の様子を記述した8月20日の『三澤日記』]]
 
=== 軍法会議の宣告から ===
 
 
 
軍法会議宣告文によると、[[安東貞一郎]]中隊長の襲撃事件は、明治23(1890)年8月18日午後11時過ぎに起きた。主犯の黒田熊次郎ら7人が、銃や刀、棒などを持って(うち2人は徒手)中隊本部に押しかけ、中隊長の官舎に向けて黒田が銃弾4発を発砲し、うち3発が官舎に着弾した。中隊長が戸外に出て来たところで脅迫する計画だったが、突然の発砲に驚いた共犯者があわててその場から逃走し、結局全員が自宅に逃げ帰った。夜陰に紛れての犯行だったため、事件当初は犯人グループを特定できなかったが、黒田が大隊本部に自首し、共犯者の氏名と襲撃に至る状況を自白した。<br>
 
軍法会議宣告文によると、[[安東貞一郎]]中隊長の襲撃事件は、明治23(1890)年8月18日午後11時過ぎに起きた。主犯の黒田熊次郎ら7人が、銃や刀、棒などを持って(うち2人は徒手)中隊本部に押しかけ、中隊長の官舎に向けて黒田が銃弾4発を発砲し、うち3発が官舎に着弾した。中隊長が戸外に出て来たところで脅迫する計画だったが、突然の発砲に驚いた共犯者があわててその場から逃走し、結局全員が自宅に逃げ帰った。夜陰に紛れての犯行だったため、事件当初は犯人グループを特定できなかったが、黒田が大隊本部に自首し、共犯者の氏名と襲撃に至る状況を自白した。<br>
 
=== 士官の回顧談から ===
 
  
 
事件直後に見習士官として第三中隊に配属された琴似屯田兵出身の[[富田貞賢]]の回顧談(河野常吉編『札幌昔日譚』)によると、黒田らが中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせ、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかったという。<br>
 
事件直後に見習士官として第三中隊に配属された琴似屯田兵出身の[[富田貞賢]]の回顧談(河野常吉編『札幌昔日譚』)によると、黒田らが中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせ、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかったという。<br>
  
=== 元中隊長の日記から ===
 
 
事件直後の様子については、初代中隊長で当時屯田兵監獄長だった三澤毅が、『諸扣帳(しょこうちょう)』と題した日記の中に綴っている。これによると、事件の翌日(8月19日)午後に第三中隊が琴似兵村を通過して札幌の大隊本部まで行き、取調を受けた。発端は「積置一件」と記している。さらに8月24日の項には「第三中隊一件は黒田外十七名営倉入の由」と記述されている。
 
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  (右の文書は、事件直後の様子を初代中隊長の三澤毅が記述した『三澤日記』の一部)
 
  (右の文書は、事件直後の様子を初代中隊長の三澤毅が記述した『三澤日記』の一部)
 
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◎暴行事件<br>
 
◎暴行事件<br>
 
 [[黒田熊次郎]]    無期流刑(官舎毀損については重禁固2月、罰金5円)<br>
 
 [[黒田熊次郎]]    無期流刑(官舎毀損については重禁固2月、罰金5円)<br>
 田中平蔵ら6名 各12年流刑(同 重禁固1月、罰金2円)<br>
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 田中平蔵ら6名 各12〜15年流刑(同 重禁固1月、罰金2円)<br>
 
◎ 護送妨害<br>
 
◎ 護送妨害<br>
 
 [[黒田熊次郎]]、田中平蔵  各軽禁固3月<br>
 
 [[黒田熊次郎]]、田中平蔵  各軽禁固3月<br>
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=== 米騒動との関連 ===
 
=== 米騒動との関連 ===
  
新琴似中隊本部襲撃事件が起きた明治23(1890)年の1月には、富山県で前年の不作を背景に米騒動が起き、4月以降、鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県などに拡大した。軍法会議の宣告によると、新琴似屯田兵170人が[[積穀]]の下げ戻しを求めたのは「近来米価騰貴し困難一方ならざる」ことが理由として挙げられており、本州の米騒動に連鎖・触発された可能性も否定できない。
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[[新琴似中隊本部襲撃事件]]が起きた明治23(1890)年の1月には、富山県で前年の不作を背景に米騒動が起き、4月以降、鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県などに拡大した。軍法会議の宣告によると、新琴似屯田兵170人が[[積穀]]の下げ戻しを求めたのは「近来米価騰貴し困難一方ならざる」ことが理由として挙げられており、本州の米騒動に連鎖・触発された可能性も否定できない。
 
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=== 黒幕疑惑 ===
 
=== 黒幕疑惑 ===
  
新琴似中隊本部襲撃事件について詳述した[[富田貞賢]]は、事件の黒幕について『札幌昔日譚』の中で次のように語っている。「黒幕」と名指しされた[[出田平馬]]は新琴似屯田兵の一人で、軍法会議の2日後に病気理由で免官となった。後に「留萌日日新聞」を創刊し、北海道議会議員も務めた。<br>
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[[新琴似中隊本部襲撃事件]]について詳述した[[富田貞賢]]は、事件の黒幕について『札幌昔日譚』の中で次のように語っている。「黒幕」と名指しされた[[出田平馬]]は新琴似屯田兵の一人で、軍法会議の2日後に病気理由で免官となった。後に「留萌日日新聞」を創刊し、北海道議会議員も務めた。<br>
 
「新琴似の一揆騒動は積穀一件に原因せり。(中略)叛者は多く正直者にて後に黒幕あり。[[出田平馬]]等これなり。しかしてこれ等黒幕の者共は、学校の窓よりひそかにこの状況を見物し居たる由なれども、知らぬと答えて免れたりという」
 
「新琴似の一揆騒動は積穀一件に原因せり。(中略)叛者は多く正直者にて後に黒幕あり。[[出田平馬]]等これなり。しかしてこれ等黒幕の者共は、学校の窓よりひそかにこの状況を見物し居たる由なれども、知らぬと答えて免れたりという」
 
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*『[[新琴似百年史]]』(1986年、新琴似開基百年記念協賛会)
 
*『[[新琴似百年史]]』(1986年、新琴似開基百年記念協賛会)
 
*『さっぽろの昔話・明治編上』 (1978年、河野常吉編・みやま書房) 
 
*『さっぽろの昔話・明治編上』 (1978年、河野常吉編・みやま書房) 
*『函館新聞』 明治23年10月29日、同30日
 
  
 
*[http://tonden.org/report_files/sink_jiken41.pdf 「新琴似中隊長襲撃事件に新事実」] (小林博明・『屯田』第41号)
 
*[http://tonden.org/report_files/sink_jiken41.pdf 「新琴似中隊長襲撃事件に新事実」] (小林博明・『屯田』第41号)
 
*[http://tonden.org/bucknum/entori/2012/4/28_di50hao_files/sink_kuroda.pdf 「子思孫尊 土地にこだわり125年」] (黒田徹談・『屯田』第51号)
 
*[http://tonden.org/bucknum/entori/2012/4/28_di50hao_files/sink_kuroda.pdf 「子思孫尊 土地にこだわり125年」] (黒田徹談・『屯田』第51号)

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