「島田吉太郎」を編集中

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#明治二十年頃官では養蚕と共に麻の栽培を奨励せられたが、徳江曹長が主として担当せられて居た。製麻の教師としては栃木県より中杖武三郎といふ人を招聘し、十八年兵許りがその指導を受け、十九年兵に対しては官命により自分が教授してやった。麻の製造法は栃木式の竹引きで、事業場として充てられた建物は篠津村から移した養鬘室で、春は蚕室に使用するが、冬は製麻場にあてた。兵村中総出となって、廣場に幾列にも並んでセッセと働いてゐる様子は中々見事であった。殊に夜業の時めいめいが一つ宛カンテラをつけて、やってゐる様子は今時ではとても見ることが出来ぬ壮観であった。<br>
 
#明治二十年頃官では養蚕と共に麻の栽培を奨励せられたが、徳江曹長が主として担当せられて居た。製麻の教師としては栃木県より中杖武三郎といふ人を招聘し、十八年兵許りがその指導を受け、十九年兵に対しては官命により自分が教授してやった。麻の製造法は栃木式の竹引きで、事業場として充てられた建物は篠津村から移した養鬘室で、春は蚕室に使用するが、冬は製麻場にあてた。兵村中総出となって、廣場に幾列にも並んでセッセと働いてゐる様子は中々見事であった。殊に夜業の時めいめいが一つ宛カンテラをつけて、やってゐる様子は今時ではとても見ることが出来ぬ壮観であった。<br>
 
#製品は各自随意に売った。売り先は札幌だが、一冬に一人二、三十圓の収入はあった。明治二十五年頃札幌の農業博覧會に麻製品を出品したことがある。麻は今の麻畑に作ったのであるが、自分の場所は今の大曲であったので、通ふに道路がなく、涯づだひに往き来したので、随分と難儀したものだ。
 
#製品は各自随意に売った。売り先は札幌だが、一冬に一人二、三十圓の収入はあった。明治二十五年頃札幌の農業博覧會に麻製品を出品したことがある。麻は今の麻畑に作ったのであるが、自分の場所は今の大曲であったので、通ふに道路がなく、涯づだひに往き来したので、随分と難儀したものだ。
 
[[Category:証言|しまだ]]
 

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