屯田兵制度

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屯田兵開拓の図

屯田兵制度は、明治政府が北海道の開拓と北方警備を主な目的として、兵農両面を担う人員を北海道の各地に組織的・計画的に移住・配備していくことを内容とした制度で、黒田清隆の建議によって1873(明治6)年12月25日に制度実施が決まった。
「屯田」は、漢の武帝が北方からの侵略に備えて配備した「田卒」の駐屯地の名に由来し、屯田兵制度は日本の軍政史上において、また、植民政策としても特異な制度だった。
屯田兵制度に基づき、7,337名の屯田兵が37の兵村を形成し、農業や自治の面で北海道発展の礎を築いた。 人口増加を背景にした北海道における徴兵制の実施や第七師団の創設によって、屯田兵制度は1904(明治37)年9月に廃止された。


写真は「山鼻屯田兵開拓の図」

目次

屯田兵前史

「北門の鎖鑰」

「鎖鑰(さやく)」—「かぎ・鍵」と「じょう・錠」で、門戸のしまりという意味。「北門の鎖鑰」という語句が使用されたのは、宋史、冠準伝「北門鎖鑰、非準不可」と記したのが初めてとされる。
 中国では古い時代から使用されているが、日本では徳川中期頃から明治時代にかけて、東蝦夷西蝦夷北蝦夷サハリン)・千島列島など日本の北方領土に関心を持っていた人々が、しばしばこの言葉を使用した。当時のロシアの南下政策に対する不安や恐怖が背景にあった。
 このロシアに対する恐怖感が、明治初期の北海道における開拓事業という発想にもつながった。

ロシアの南下政策

 ロシアがウラル山脈を越えてシベリヤを侵略し始めたのは、皇帝イワン四世の時代の1581(天正9)年だった。エルマークというヴォルガ河の盗賊を首領として、その兵力はコサック兵を中心に800人で、鉄砲で武装していたと言われている。当時シベリヤで強大な勢力を持っていた韃靼(だったん)人の本拠を襲った後東進を続け、約100年後の1697(元禄10)年にはカムチャッツカ半島に到達した。
 ロシアの目的は、当時ヨーロッパの婦人らの間で大流行したテンやラッコその他の毛皮を獲得するためだった。商人はそれをヨーロッパヘ持って行くだけで相当な利益が出ることから、略奪隊に金を惜しまず出した。
 1778(安永7)年、ロシア商人が北海道のノツマカップ(現・根室市)で松前藩の役人と初めて接触し通商交易を申し出た。これに対して松前藩は翌年、「日本はいま鎖国であるから通商が出来ない、もし是非と言うなら長崎へ行って交渉してくれ、又、航海の物資が必要なら千島の国後島でアイヌと交易してくれ」と回答した。松前藩では、藩主の相続をめぐる混乱期にあり、このことは幕府に報告されなかった。


幕府の蝦夷地支配

 幕府は、蝦夷他の状態が次第に明らかになると、このままではロシアの南下政策に対処できないと判断して蝦夷地を幕府直轄とし、東北地方の諸藩に命じて藩兵を派遣して防備することにした。同時に、干鳥北蝦夷の調査に乗り出し、近藤重蔵最上徳内が探検した。  彼らが千島を探検した時、ロシア人は既にウルップ島をはじめ国後択捉島に上陸し、島のアイヌ人を脅迫したり、懐柔したりして目的のラッコをどんどん捕獲していた。その後、1811(文化8)年には、来航したロシア艦長ゴローニンが、警備の藩兵に逮捕される事件も起きた。
 しかし、当時の日本は幕末の混乱期にさしかかった時期で、幕府は「北門の鎖鑰」には消極的だった。1855(安政元)年、アメリカと和親条約を止むなく締結し、その年の11月には、日露和親条約も結んだ。樺太雑居制を約束し、北方領土はいつどんなことになるのか判らない状態になっていた。

明治維新と北海道

 鳥羽・伏見の戦いを端緒に戊辰戦争が始まった1868(明治元)年1月、公卿の清水谷公考は、蝦夷地の現況を明治政府に説明し、この地に鎮撫使を派遣するよう建議した。日本の北方領土の状態を良く理解していなかった新政府は、この建議を採用し、内戦の進行中にもかかわらず蝦夷地に行政機関として箱館府を設置することを1月中に決定し、清水谷を知事に任命した。


箱館戦争

 1868(明治元)年4月上旬、清水谷公考は部下の官吏と警護士を連れて箱館に赴任し、直ちに幕府の箱館奉行を廃止し、箱館府庁を設置して事務引継ぎを行い箱館周辺に警護兵を募り砲兵51人を置き、新兵隊とし、在住の箱館奉行の兵をも全部箱館府の指揮下とした。
 しかし、東北戦争の終結後、榎本武揚が、幕府脱走軍を指揮して北海道に上陸し、北海道共和国蝦夷共和国)を創るとして箱館へ向って進撃を始めたため、清水谷知事は止むなく10月、青森へ退却した。政府は翌年の2月頃から黒田清隆を参謀として、榎本軍を掃討する作戦を始めた。5月に入って箱館戦争は、脱走軍の降服によって終結し、国内戦はこれで終焉したが、北海道の行政機関の設置は遅れることになった。


札幌開府

 1868(明治元)年7月、政府は人心を一新するため蝦夷地北海道と改称し、行政機関を開拓使と称し、その長官に鍋島直正を任命し、次官に清水谷公考を命じ、その他開拓判官岡本監輔松浦武四郎らを採用した。その中の一人として佐賀藩士・島義勇が判官として開拓使に出仕し、直ちに札幌北府の建設を命ぜられ、11月、銭函に仮出張所を設けた。
 島判官は冬期の雪吹の時期に札幌の中央に当たる大通公園創成川に基線を作成し公館や公舎を作り、まちづくりの基礎を描いた。しかし、小樽地区の金融・資材・生活用品などを支配する陸軍省が、開拓使による本府設置に非協力的だったこともあり、建設費用が予想以上にかさみ、予算が桁違いの数字になってしまった。  この結果、初代開拓長官鍋島直正の後を受けた東久世通禧長官と意見が対立した島判官は、1869(明治2)年2月上旬に更迭され帰京した。それでも、本府設置にかける意欲は並々ならぬものがあって、赴任から更迭までの間に建設構想の基礎が出来上がっていたことから、島判官は「北海道開拓の父」として北海道神宮の境内にある開拓神社に祭られている。


樺太の紛争

 雑居制がとられた樺太では、日本人とロシア人との紛争が次々と発生した。特に、日本の内戦・戊辰戦争の間は、日本からの出兵の余裕はないとみたロシア側は、日本の施設・住居・アイヌ人の墓所などを破壊するなどますます挑戦的な態度に出てきた。岡本監輔判官は、この実情を政府に報告すると共に出兵するよう建議した。しかし、政府内では出兵論、外交交渉論、樺太放棄論などがあって、明確な政策を打ち出せずにいた。
 政府は止むを得ず、英国公使の意見を求めたところ、「ロシア帝国は今やヨーロッパでも列強国の一つで、日本の現況と比較すると国力の差が大きい。この際、北海道の防備を固めるのが最も賢明である」との見解を得た。これに従って外交交渉に力を注ぐ方針を固め、二代長官に就任した東久世通禧に次の通達を伝えた。

一、北海道ハ皇国之北門、最要衝之地ナリ。今般開拓被仰付侯ニ付テハ深聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ敦ス可キ事。
一、内地人民漸次移住ニ付土人ト協和、生業蕃殖侯様開化心ヲ尽ス可キ事。
一、樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ立トシ、条理ヲ尽シ、軽卒之振舞曲ヲ我ニ取ル事アル可ラス。
  自然渠ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ、一人一己ノ挙動アル可カラス。
  心へ全府決議之上是非曲直ヲ正シ、渠ノ領事官ト談判可致、其上猶忍ブ可カラサル儀ハ、
  延議ヲ経、全国之カヲ以テ相応スベキ事ニ付、平居小事ヲ忍ンデ大謀ヲ誤マサル様心ヲ尽スヘキ事。
一、味方新造之国、官員協和戮カニ非サレバ、遠大之業決シテ成功スベカラザル事ニ付、上下高卑ヲ論ゼズ、
  毎事己推シ、誠ヲ披キ以テ従事、決シテ面従腹非之儀アル可カラサル事。
  明治二年九月 右大臣

 政府は、出兵論を主張した鍋島直正開拓長官から大納言へ転出させることによって、事態の収拾を図った。

黒田清隆の登場

黒田清隆

 黒田清隆箱館戦争後、陸軍省の大局として敵将・榎本武揚の死刑に対し罪一等を免ずる請願を行うなど細かな心情の持主だったが、軍人気質で洞察力に優れた人物でもあった。一時、東京都知事にと言う話もあったが、大久保利通の推薦によって北海道開拓使次官に任命された。彼は国内の機構整備、人材登用を主張し外事関係は従にすべきで、樺太問題についても放棄するも止むを得ないと主張していた。
 1870(明治3)年5月、黒田は樺太専任に命じられると、7月には樺太の実情視察のため出張した。現地ではロシア側の責任者と面会したが、先方の態度が一方的で妥協する余地もないことから、ますます持論の樺太放棄に傾いていった。帰途、北海道の西側から中央の奥地にまで入り、気候・風土を確かめ、アイヌ人の生活ぶりなどを視察して北海道の民情の理解に努めた。
 帰京した黒田は、北方領土の施策に対して概ね次のような建議をした。

 ① 石狩に全道を総括する鎮府を置くこと。
 ② 総督には大臣級を任命すること。
 ③ 道内を統括するには諸県とすること。
 ④ 歳費を150万両とすること。
 ⑤ 樺太を北海道開拓使が統治すること。
 ⑥ 開拓のため外国人を招聘すること。
 ⑦ 人材確保を目的で留学生を外国に派遣すること。
 ⑧ 開拓器機を外国から購入すること。
 ⑨ 日本人を早速に移住させること。

 この黒田次官の建議は、政府内に大きな反響を呼び、次のような太政大臣三条実美の名で通告が出された。

 ① 来年春夏に北海道を巡見して大臣又は納言が出張を決定、大綱を作成する。但しその細目は次官が帰朝後に実施。
 ② 大臣、大納言が決定するまで現長官に委任する。
 ③ 次官は外国を視察すること。
 ④ 前項の出張時に、開拓計画に堪能な人物を招聘すること。
 ⑤ 招聘する外国人の費用は開拓使の定額以外で支出すること。
 ⑥ 留学者は次官が出張時に同行させる、そのための人選を行うこと。

 政府が北海道の方向を決定したので、北海道の将来は黒田次官の実行力にかかることになった。1871(明治4)年春、黒田はアメリカヘ渡り、駐米公使だった森有礼と連絡を取って米国大統領と面会の打合せをするとともに、北海道の開拓に必要な人材を探し求めた。
 森公使は、米国内務省の官吏に相談し、米国農務省総裁・ケプロンを推挙した。黒田次官はケプロンに面接し、直ちに開拓総顧問となるよう依頼した。この経緯は、逢坂信吾「黒田清隆とホーレン・ケプロン」の中のケプロンが森公使に宛てた書状に詳しく記載されている。
 1871(明治4)年7月、ケプロン一行は日本に来て天皇に謁見し、北海道開拓の第一歩を踏み出すことになった。ただ一つ残っていたのが、北海道の治安と国防の問題だった。

屯田兵制度の創設


制度案

 北海道に鎮台を設置する案は、1871(明治4)年6月に参議に任じられた当時の西郷隆盛の発想だった。北海道は他府県と違って人口が僅少なので四鎮台と同じように徴兵令を施行することができないから、移住者を土着兵として鎮台を設置するという案である。同年8月、部下の桐野利秋少将を北海道へ派遣したのも、函館の兵力の状態や鎮台設置の予定地、札幌周辺を調査するためだった。帰京した桐野少将は、札幌西部の琴似周辺が有望であると回答した。

 西郷は鎮台設置案を実施するつもりだったが、1873(明治6)年10月、征韓論に破れて失脚し下野した。そのころから黒田清隆は、開拓使の部下に命じて屯田兵の具体的な方法を検討させ、安田定則永山盛弘永山武四郎時任為基らは建議案を次官に提出した。黒田次官は大久保利通を通じて岩倉左大臣に部下の屯田兵制に関する建議書を提出し、同じ11月に自らが屯田兵の建白書を太政大臣に提出した。政府内に部下が書いた制度実施案に賛成する人たちがいることを察知したからだった。


道南の騒乱事件

 鎮台・屯田兵構想が練られた時期に前後する1873(明治6)年6月、北海道では初めて漁民の騒乱事件が発生した。開拓使の設置時には青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区が、この年から開拓使の管轄下に置かれた際、青森県下では5%だった漁税が10%に引き上げられたのが発端だった。これを不満とする漁民らは、6月の中旬から福山で22戸、江差では7戸が、税金掛の住宅をはじめ民家を壊し始め、やがて他の村にも波及し始めた。

 函館支庁の責任者・杉浦誠は部下と相談して直ちに東京にいる黒田清隆次官に報告し、青森に在ある鎮台の屯営に対して兵隊の派遣を要請した。6月26日、黒田次官が現場に到着しこの事件を処理した。全国では農民の一揆が相当な数になっていたものの、北海道では初めての事件で、しかも他県から軍隊を派遣したのは初めてだった。

 道南の騒乱を契機に、道内では治安対策が必要であり、樺太雑居制による紛争が道内に波及する可能性もあることから、北海道に屯田兵を設置する必要があるという意見が政府内にも広がった。これを機に黒田次官は11月、屯田兵制度の建白書を提出したのだった。


制度実施の決裁

 太政官は、黒田清隆から出された屯田兵設置に関する建議を左院、陸軍省、海軍省、大蔵省に提出し、この意見を文章で回答するよう求めた。各省にはほとんど反対意見がなく、実施上の細部については陸軍省と開拓使とが詳細に検討する必要があるとの条件が付された。建議書提出から約1ケ月で太政官の決定が下されるのは、この屯田兵制度が時宜にかなった緊急かつ重要な事項であったことを物語っている。

 1873(明治6)年12月25日、屯田兵制度の実施が決裁された。

 御達書
 其使管轄北海道へ招募移住之儀、見込通聞届侯条、
 屯田演武之方法等ハ都テ陸軍省商議之上尚可伺出、
 尤右入費大蔵省借入未納金ヲ以テ相充侯儀ハ難聞届、
 其使中出之通金六拾八万円三ケ年間二割合別途可相度ニ付、大蔵省へ協議及クヘク、此旨相違侯事。
 但移住授産之儀八着手次第時々可申出、且軍艦巡航之儀ハ別段海軍省へ相違侯事。

 決定された制度を実施するに当たっては、人事関係をいかに行うか、実施する基礎的な規則をどのように決めるかが必要だった。特に、屯田兵には守人としての性格と開拓事業に従事するという二重の性格を持っていたため、難しい問題だった。これに関して1874(明治7)年3月、開拓使側から開拓使長官が陸軍将官を兼務することによってこの問題を解決したいとの提案が政府に出された。

 太政官は直ちに関係省と再度協議することになったが、ロシア公使から外務省に、「今般北海道へ6千人の屯田兵を配置し、その中から2千人を樺太へ派遣するとの噂があるが、真否を回答してもらいたい」との質問状が出された。これに対して太政官は、「屯田憲兵は治安要員であって、年間500人とその家族2千人、それが3ケ年間に北海道へ移住するという計画であって、樺太へ派遣するという計画は全くない」という内容を外務省を通じて回答することとした。

 ロシア側の反応もあって、早急に屯田兵制度を実施して既成事実を作って置く方が有利であるとの判断で、陸軍省開拓使とが一致することになった。この結果、黒田次官を陸軍中将に任じることで、屯田兵の二つの性格を同時に満たし、屯田兵の幹部も軍事訓練と開拓事業を並行して実施することになった。幹部らは、准陸軍少尉などと形式的に陸軍の頭に「淮」を冠することにした。

屯田憲兵例則の制定

 屯田憲兵例則は、編制、任務、貸与品、兵器、昇給、休日、罪のことなど8項目について記してある。開拓使の関係者が案を作り、陸軍省の関係者と検討して決めたが、何分にも過去に例のないものだったため、作成には約3ケ月を要し、実施中においてさまざまな不備な点も浮上し、その都度追加修正された。開拓使は1873(明治7)年10月30日、以下の内容の例則案を政府に提出した。

 屯田憲兵例則ノ義伺
 北海道屯田兵設置ノ義、演武ノ方法等ハ陸軍省商議ノ上可伺出旨昨年十二月中御達相成居候処、
 憲兵ノ本旨ニ基キ実際ノ事状ヲ参酌致シ、陸軍省照会ヲ経、別紙ノ通地方適宜ノ方法調査致候。
 尤モ実施施行ノ際万一差支ノ廉有之節ハ、臨機処分ノ上開申可仕候条、此旨御允裁有之度、此段奉伺候也。
 御指令伺之趣聞届候事。

 屯田兵の基本法が政府から許可を受けると、屯田兵とその家族の入植準備が進められた。屯田兵の招募について、黒田次官の建白書では、青森・宮城・酒田3県にいる士族で生活に困窮している者を招募すると、書かれており、その士族は戊辰戦争のときの賊軍を指していた。

 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。

屯田兵村の形成


最初の屯田兵

琴似屯田兵

 1875(明治8)年5月、青森・宮城・酒田3県と道内の函館周辺にいた士族ら合計198戸、その家族965人が、札幌の西方の琴似兵村へ入植した。翌年には札幌の南方の山鼻兵村へ240戸が入植した。それに加えて琴似兵村の補充屯田兵32名として発寒兵村へ入植し、3名は琴似兵村不足分だった。この年は275戸とその家族1、074人が東北地方の各県と既に伊達邦直に従い入植していた人たちの中から屯田兵を選択した53名だった。

 これらの人達は開拓使が招募した第1回の屯田兵で、この480名の屯田兵は琴似兵村が第一中隊となり、山鼻兵村が第二中隊となり、屯田兵第一大隊を編成した。開拓使は1877(明治10)年にも前年通り屯田兵を入植させる予定だったが、九州地方で西郷隆盛が賊軍となって反乱を起したため、その年の2月、屯田兵部隊は直ちに屯田事務総理・黒田清隆の指令によって先ず、1ケ小隊が函館へ派遣された。その理由は本州・青森港から潜入する敵軍の関係者を警戒するとともに物資を敵側に流れることのないように警備することだった。しかし、間もなく函館派遣隊は小樽港に待機を命ぜられ、4月上旬には出征する屯田部隊の本隊と合流して、九州の戦場へ向った。

西南戦争に出征

 西南戦争に出征した屯田兵部隊は、幹部の多くは西郷軍と同じ鹿児島出身であり、屯田兵は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた本人や子孫が大半であるという奇好な性格を持っていた。従って屯田兵部隊の幹部は親兄弟と戦わなければならず、一方で、屯田兵は親兄弟を殺した敵に対して仇を取る機会が巡り来たと感じていた。

 屯田兵部隊は4月25日、肥後国小島字百貫口(熊本県)という所に停泊し小島に一泊した。27日、別動第二旅団に編入され、八代台より人吉方面の敵を攻撃しつつ進出せよと、総覧本営から命令を受けた。この戦闘中、最も激戦だったのは、8月2日の一瀬川の戦いで、この戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っている。

 西南戦争で屯田部隊は7人の戦死と多くの負傷者を出したが、その終焉をまたずに帰途につき、東京でしばらく休んで9月29日、小樽港に帰還して琴似・山鼻両兵村へ帰った。屯田兵が戦闘に参加していた期間は、開拓事業に従事することができなくなったため開拓使は、政府に伺いを出して、扶助期間が3ケ年という規定を1ケ年延長する措置を取った。これにより、屯田兵たちは、かつての賊軍の汚名を返上してはっきり朝廷側になったことを政府が承認したと確信することになった。

 開拓使は、北海道在住の士族移住者らを招募して軍事訓練を行い、東京に集結・待機させた西南戦争の動員計画を参考に、内外で不測の事態が発生した場合を考慮して彼らを屯田予備兵とする「屯田兵予備兵条例」を施行した。しかし、この条例は1881(明治14)年に廃止された。


屯田兵の補充

 開拓使時代に屯田兵が入植したのは、1878(明治11)年に札幌の東方の江別兵村に僅かに10名、1881(明治14)年に江別兵村の分隊として石狩川対岸に当たる篠津兵村への20名の入植が実現しただけだった。この屯田兵の出身地は東北地方の人々だった。予定した3ケ年間の入植が出来なかったのはさまざまな原因があったが、その主な理由は屯田兵の入植実施に伴う費用が予想以上に要したからだった。

 1882(明治15)年2月、開拓使が廃止され、札幌・函館・根室3県及び事業局の3県1局の時代となったため、屯田兵は陸軍省の管轄下に入った。しかし、管理運営は北海道全般の予算から支出することになり、屯田兵入植に関する費用は含まれていなかった。

 その間、農商務省は全国の士族が失業して疲弊しているのを見て、北海道に開拓移住を計画し「移住士族取扱規則」を施行した。1882(明治15)年から1889(明治22)年までの間に、毎年250戸(札幌県150戸、函館県50戸、根室県50戸)を入植させる計画で、2年次まで実施された。

 ところが、この計画は2年目で中止となり、その予算の残額を屯田兵の入植に振替え、1884(明治17)年から5年計画を実施することになった。この振替え計画は、屯田事務局永山武四郎局長が江別兵村をそのままに放置すると孤立してしまうこと、太平洋沿岸に屯田兵村を設置して屯田兵を入植しなければ、ロシア側がいつ上陸するか知れないことなどを政府に陳情した結果だった。

 5ケ年計画に従って1884(明治17)年から江別の追加入植が行われ、翌、翌々年の江別の補充、野幌兵村の220戸入植をはじめ、根室の和田兵村220戸の入植が行われた。1887(明治20)年には室蘭地区の輪西兵村及び札幌の北方の新琴似に兵村を設置して屯田兵を入植させた。

兵村の増植計画

 屯田兵の補充が5ケ年計画で実施され、その効果が上々であることを政府も認めた。そこで、屯田事務局は新たに増植計画を実施するために屯田兵の組織を変更し、機能を拡大して受入れ対策の強化に乗り出した。その第一は基本法である「屯田兵条例」や召募規則を整備すること、第二には幹部の育成計画だった。そのため札幌農学校の生徒の中から屯田兵の幹部を教育する道を開くことと同時に、既に入植している琴似・山鼻両兵村の屯田兵の中から優秀な者を選択して札幌農学校へ入学させ、幹部を養成した。

 次に、屯田兵の中央機関を屯田兵本部と改称し、その本部長を陸軍少将とし、陸軍省の編制から見ると、独立旅団と同格となった。規則、組織、機構を拡大して屯田兵の増殖計画を立て、実施できたのは、1888(明治21)年4月に黒田清隆が総理大臣になったことと無縁でない。北海道の実情を深く理解していた黒田は、将来についても強い関心を持っていた。

 永山武四郎屯田兵本部長は1889(明治22)年、屯田兵20ケ中隊編成の計画を提出した。北海道の拠点、特に開拓を主体として石狩川流域に20ケ中隊すなわち1ケ中隊220名とその家族を入植させる計画で、その数は計4,400名となる。計画は承認され、この年から篠路兵村に220名、西和田兵村に追加分100名、輪西兵村にも追加分110名の入植を見た。翌年には厚岸町の太田両兵村440名と滝川両兵村400名の入植が実現した。

 ところが、1890(明治23)年になって、帝国議会の施行に基づいて議会で年間予算を審議することになり、1891(明治24)年を初年度として毎年500名の屯田兵を入植する予算が決定された。

士族屯田から平民屯田へ

 屯田兵を志願する者には、いろいろな資格要件があり、例えば年齢の制限とか家族数とかがあったが、その一つに士族でなければ応募できないという条件があった。しかし、1890(明治23)年に、次年度から士族・平民が応募できることになった。

 開拓使時代の当初、指定県庁に対する召募依頼状では「士族のみ」となっていたが、士族だけでは予定の屯田兵募集散が満たされないため、平民も応募できると追加依頼状を県庁へ送った経緯があった。また、江別及び篠津兵村の入植時に「士族・平民ともに資格がある」としていたが、実際には平民(農民)のみが屯田兵に応募して入植した。

 陸軍省時代になって、1884(明治17)年より1890(明治23)年までは、士族のみを入植の条件としていた。これは次のような形式になっていた。

 「陸軍省告示第十五号
 今般左ノ各県士族中ヨリ屯田兵志願者ヲ徴募シ、来明治二十三年五月北海道石狩国空知郡、釧路国厚岸郡両所ノ内ニ在住セシメ、……云々」
  明治二十二年九月二十八日   陸軍大臣 大山巌  (法令全書)

となって士族のみを指示している。これが、次年には次のようになっている。

 「陸軍省告示第十号
 左ノ各県士族平民ヨリ屯田兵四百戸、屯田騎兵四十戸、屯田砲兵屯田工兵各三十戸ヲ明治二十四年四月云々……」
  明治二十三年十月二十五日   陸軍大臣 大山巌

となっている。これは5ケ年計画に従って入植した屯田兵は形式的に士族のみとなっているが、その理由は農商務省による「移住士族取扱規則」の予算残額を流用したため平民の入植ができなかったと考えられる。実際には士族以外の者が士族の家名を金銭で買受け、入植した者がおり、これを「士族の株」といって、徳川中期頃から下級武士の家名を売買する習慣があったので、それほど奇異なことではなかった。

 また、士族は長男のみが家督相続することができて、次男や三男は平民となる規定があったから、あまり意味がなくなっていた。従って、屯田兵には士族・平民ということはあまり重要な要素ではなかった。実際に、1891(明治24)年以降の入植者の中にも、多くの士族の人々がいたといわれる。

道内に点在した兵村

屯田兵村の配置図

 屯田兵村は、道南地区を除いて全道に点在した。
 

 ①札幌地区 4ケ中隊 主の目的 治安
 ②江別地区 2ケ中隊 主の目的 治安
 この6中隊は北府札幌を防備することが主な目的だが、開拓事業も行った。

 ③太平洋沿岸地区 5ケ中隊
 この地区は主として国防を目的として設置されたため、農業適地とはいえず、入植者は他兵村と比べて苦労した。しかも5中隊とも開拓は不成功で、再移住した人々が多い。

 ④空知地区 4ケ中隊 主に開拓
 現在の滝川市を中心に入植した屯田兵で、主なる目的は開拓事業だった。石狩川中流で沃肥な地帯で農業適地だったので、この地区に入植した屯田兵は農業経営に成功した人が多い。

 ⑤美唄地区 3特科隊
 この地区に入植した屯田兵は騎兵砲兵工兵特科隊で、騎兵160戸、砲兵120戸、工兵120戸となり、他の歩兵隊とは違った兵村を形成した。他の各兵村が完了に4ケ年もかかったのに対し、この地区は石狩川の中流地帯にあって地味が沃肥で最も農業に適地だった。

 ⑥雨竜地区 5ケ中隊 開拓事業
 この地区は1895〜96(明治28〜29)年の2ケ年にかかって1千戸の入植者で形成した。石狩川流域では最終の入植で、現在、各兵村ともに農業、特に水稲経営ですべて成功している。

 ⑦旭川地区 6ケ中隊 主に開拓
 この地区は旭川第七師団が設置される5年前に入植した永山兵村をはじめ4ケ中隊は3ケ年で完了した。石狩川上流地帯で中流と同じく沃肥な地味で農業適地だったため、農業が主体で現在に及んでいる。屯田兵村の典型的な農業経営が行なわれた地区でもある。

 ⑧常呂・湧別地区 5ケ中隊
 この地区の入植は1897〜98(明治30〜31)年で、屯田兵制度最後の時期に当たる。国防を意識的に考慮して屯田兵村が設置された。オホーツク海からの敵の上陸の可能性があったためで、網走港から上陸した場合、現在の北見市との距離を計算していたとみられる。また、湧別も、オホーツク海からの上陸拠点として重要な地区と考えられた。農業に適した農作物を開発するまでは、農業経営に苦しんだ。現在はタマネギ栽培の産地として栄えている。

 ⑨天塩川地区 3ケ中隊
 剣渕及び士別は1899(明治32)年、屯田兵制度の最後の屯田兵が入植した地区で、入植計画は1906(明治39)年までとなっていたが、突然この年で入植を中止した。この現役が終了した1904(明治37)年の9月に屯田兵制度が廃止された。

 以上、9つの地区に37の兵村があり、全屯田兵数は7,337名、その家族は3万9、911人に上った。

第七師団設置と屯田兵


日清戦争

 日清戦争屯田兵全員が戦場へ出征したのは、終戦の3、4ケ月前になる1895(明治28)年2月だった。その時、屯田兵4ケ大隊及び特科隊騎兵・砲兵・工兵各隊が召集されて、臨時第七師団が編成された。東京まで行き、そこで戦場への出動を待機する命令が出された。東京の待機場所は、既に戦場に出動していた近衛師団の歩兵第一連隊及び第二連隊の兵営だった。屯田諸隊は出動命令に備えて、毎日、代々木練兵場で訓練に当たった。その様子を見学した陸軍関係者は屯田兵の戦意あふれる行動に驚いたとされる。

 4月17日、清国と日本との間で講和条約が調印されたため、屯田兵の諸隊は北海道へ帰還し、臨時第七師団は解散し、屯田兵はそれぞれの兵村へ帰って、再び開拓事業に従事した。この間の臨時第七師団の編成、兵員などについてどこにも記録が残っておらず、大本営の陸軍参謀本部が作成した出動計画はすべて極秘事項とされた。

 ところが、屯田兵諸隊の動員に関する費用は大蔵省が計算して総理大臣に提出することになっており、その提出した書類(註)によると、野戦隊に属する人員は将校以下5,701名となっている。この時の既設屯田兵は、歩兵隊が4,105名、特科隊400名の合計4,505名で、提出書類との差の1,596名は、将校その他の人員とみられる。

註: 国立公文書館所蔵『公文類聚第19編(明治28年巻19)』

第七師団の新設

 1895(明治28)年2月の臨時第七師団の編成をきっかけに、第七師団の新設は予定通りに進行し、同年8月には徴兵令による施行地が指定された。

 来明治二十九年ヨリ第七師団二常備隊ヲ置クヘキ計画ニ付、徴兵令第三十三条ニ依リ
 北海道渡島・後志・胆振・石狩ノ四箇国ニ同令施行致度、別紙勅令按及理由書相添閣議ヲ請フ
  明治三十八年八月三十日   陸軍大臣 大山巌
 内閣総理大臣 伊藤博文 殿
 逐テ本件ハ内務、海軍両大臣協議済ニ仮条此段添テ扱開申候也

 翌年5月、勅令第205号により師団司令部条例が改正され、第2条2項で「前項ノ外近衛師団長ハ客間守衛ノ事ニ任シ第七師団長ハ屯田兵ノ徴募補充茲ニ耕稼事ヲ掌ル」と追加決定された。この結果、屯田兵諸隊は第七師団の管轄下に属し、師団指令部の副官部によって管理されることになった。その時期の屯田兵の編制は平時として第一大隊(本部秩父別)5ケ中隊、第二大隊(本部滝川)4ケ中隊、第三大隊(本部永山)6ケ中隊、第四大隊(本部和田2ケ中隊及び特科隊等が副官部に統括された。

 当時、陸軍の各師団はすべて、国民の義務として徴集された者(壮丁)の常備兵によって平時編制を行ったが、新設の第七師団については、徴兵令による徴集と志願者による屯田兵の二本立てとされ、他の師団とは違った編制となった。二本立となった理由は、その一つが北海道の人口が僅少のため壮丁を徴集しても第七師団の平時編制に充当できない状態にあったため、それを補充する方法として各府県からの志願者を屯田兵として召募した。

 もう一つの理由は国防に関係しが、北海道のオホーツク海沿岸からの仮想敵に対して網走地方と宗谷地方の二方面を予想し、網走地区に対抗して常呂川流域と湧別川流域に屯田兵を設置し、一方、宗谷地区には天塩川流域に兵村を設置して土着兵を配置する必要があったからだった。

 第七師団を設置した翌年と翌々年に北見及び湧別地区に屯田兵を配置し、1899(明治32)年には剣渕及び士別両兵村に屯田兵を入植させた。さらに名寄・多渡の地区にも兵村を設置する予定があったが、中止とされた。入植中止は、陸軍の参謀部からの意見として、同じ戦闘が行なわれた場合、志願兵徴集兵とが同時に戦闘をできないという意見があったためだった。

屯田兵制度の廃止

服役期間

 北海道の人口が漸次増加していくのは、主に本州からの移住者が多くなったことを意味し、明治30年代になると、北海道の実情がかなり知れ渡ったこともあり、移住者も多くなった。屯田兵の最後の入植者が5年間の現役を終えて後備役となった時期の1904(明治37)年9月には、ついに屯田兵制度が廃止された。

 廃止後に残った問題は、屯田兵給与地の扱いだった。屯田兵の給与地に関する規則の中で主に問題となったのは、 

 ① この土地が税金の対象になるか
 ② その土地が自由に売却できるか
 ③ 兵村の公有地がどうなるか
 の三点だった。

 ①については、給与地がそれぞれの私有地と決定した時に、入植年度から兵役期間20年とそれに10年を加えて免税と決定された。
 ②については、①の決定によって、私有地となった時点で自由に売却することができるとされた。
 ③の問題はむずかしい面があり、まず、内務省関係の法律として北海道に二級町村制が施行される時、屯田兵村がその地区の町村に帰属することになった。その時、屯田兵側は「公有地はわれわれ屯田兵の共同財産であるから兵村のものである」と主張した。しかし、北海道庁はその見解を取らず、兵村の共有地はすべて、その地の町村に属すると主張した。屯田兵側は第七師団副官部へ行って実情を説明したところ、副官部は屯田兵側と同じ見解を取り、この問題は内務省と陸軍省へと発展した。最終的には、1907(明治40)年になって、内務省が二級町村制を施行する法律の中で、屯田兵村の公有財産は旧兵村に帰属すると決定し、ようやく決着をみた。

 公有地に関してはさまざまな経緯があったが、ほとんどの旧兵村では現在の市町村の公有地となっている。また、この公有地が旧兵村の土地改良費、学校増築費、道路補修、神社・寺等に寄付したケースも見られた。

屯田兵村の姿

開拓事業

 1878(明治11)年7月頃に屯田兵及びその家族一同に対して発せられたとみられる以下のような注意書きがある。

 本年開墾着手順序之儀ハ予テ衆議書ヲ以テ相違侯儀モ有之、各旨趣ヲ奉戴シ一際勉強可致
 其之処遇般麻苧播種済己来一部人気緩弛之姿ニ相見得且昨今ニ至リ追々暖暑之季節ニ移侯処
 中ニハ出来中昼休等ニ托シ帰宅夫形僅々時日ヲ空スル者モ不少右者是迄再三厳達候通リ既ニ扶助満期モ遠キニ非ス
 因テ自主安着ノ成否ハ専ラ本年各自之勉励ニ有之ノ処其儀モ弁別不致右様怠情侯ハ畢章軍曹伍長ノ不注意二関シ侯儀ニ付
 兼テ相定侯通リ出業時間中猥リニ帰宅侯者ハ法度所分ニ及侯条各其意ヲ貫徹シ万事本年ノ機会ヲ不夫
 一層勉強忍耐不日竣功相立無様注意可有之沈設相達也
     第一中隊長 税所篤彦

 この注意書は琴似兵村のものだが、37兵村すべてが同じような状態におかれたと推察される。各兵村の入植年度はそれぞれ異なるが、扶助期間の3ケ年の状態はほとんど同様なものと考えられる。毎年4月から11月の間は朝4時、ラッパの響きで一斉に起床することになっていた。そのため主婦は30分位も前に起床して朝・昼の食事を準備しなければならず、小さな子供たちがいればなおさらのことだった。

 週番士官は朝5時に点呼を取りに必ずやって来て、都合で士官が来れない時には週番下士が来ることもあった。いずれにしても、中隊を構成している兵村では自分の兵屋前で全員が整列することになっていた。点呼の際、屯田兵が家族全員の状態を報告し、週番士官の任務の一つは屯田兵及びその家族の身体を見ることだった。病気で欠席する者がいたときには、病気の状態を聞いて医官に報告することになっていた。

 朝6時にラッパの音を合図に全員が事業を開始した。屯田兵は中隊本部前に集合し、家族はそれぞれの開拓現場へ行き、そこでは下士が待っていた。昼12時まで一切休むことはできず、昼食1時間を挟んで、午後1時から6時まで仕事は続けて行なわれた。

 これが一日の日課のため次第に疲労が重なることも多かったとされる。春から夏、秋までの間、決まった休日以外は病気になった場合を除いて全員が仕事をしなければならず、強制労働に近い実態だった。作業の監督は、小隊長または分隊長、時には下士が当たり、作業の方法・準序等を指示したとされる。屯田兵による開拓は、一般の開拓者や開拓社組織によるものと比べて早いとされるが、中隊の組織下で厳しく進められた結果ともいえる。

兵村の生活

篠路屯田兵の一家

 開拓者は、それぞれに事情を抱えながらも、未開地へ行こうと決心するに際しては、大きな勇気が必要とされた。一般の開拓者たちは指導者が予め北海道内の場所の説明を受けて出発したのに対し、屯田兵は入植地がどんな場所かはまったく知らずに現地に入った。県庁が書いた送り状(戸籍)には、北海道の何国何郡何村……と書いてあっても、その村の場所さえはっきりせず、どんな気候風土かもわからなかった。

 特に、九州・四国・中国地方の人々は、北国の過酷な環境については、予め説明されても、ほとんど実感できなかったとみられる。出身地から最も近い港から船に乗って、初めて将来自分の兵屋の隣人となる人に会った。毎年5、6月に移住するのが例になっていたが、春の遅い北海道の寒さは、彼らにとって厳しいものだった。

 指揮官の言うままに兵村に到着すると、自分の兵屋となる所を見つけるのに一苦労だった。原始林の中にぽっと自分の家を見たときの心情は、多くの日記にほぼ共通して「女子供はみんな泣きました。こんなところに来て……」とつづられている。夜はフクロウのさびしい声、鹿や熊の遠吠えだけで、人の声など全く聞けなかったという。

 入地から1週間後に訓練が始まり、家族たちは開拓事業を始めたが、ラッパの響で起床するなど、初めての体験だった。「芋の屯田兵」としばしば言われたのは、官給の米をほとんど自分たちが食べず、売って日用品を買うのが兵村内の食生活だったため。日銭が全くなく、屯田兵の衣服は支給されましたが、家族の衣服はそれぞれ自分で用意しなければならなかった。

 服従が最初に幹部から教えられたことで、「これが開拓生活中で一番辛かった」という話が多く残っているように、屯田兵とその家族はすべて命令で動かされた。中隊幹部の指導の下での生活は、3ケ年か5ケ年で、このような生活にも次第に慣れていった。また、開拓をするには皆で協力しなければ、二抱え、三抱えもある木を伐採することが出来ず、兵村内の道を作るにも協力が必要でした。「協同」という言葉は、兵村にすぐに根付いたとされる。

 屯田兵や家族が最も嫌なことは、他人と比較して開墾が少ないことだった。これにはさまざまな原因があるが、機械を利用できない時代だったため二人より三人の方が早く開墾でき、家族が少ない者ほど苦労が多いと言うことだった。成功するか挫折して離村するかは、家族の労働力と農業条件にかかっていたともいえる。また、入植時に抽選で土地を決める「くじ運」も大きく左右した。

開拓者精神

 兵村へ入植した屯田兵とその家族は、次第に地域社会を形成していくが、その経過は他の部落と全く違っていた。普通に部落を形成するには2、3人あるいは5、6人の集まりから始まって、年を経て次第に人が集まってゆくのに対し、兵村ではある日突然、千人位の人が入って部落を形成したため、その地区の一大勢力となった。その意味で屯田兵村は、後から入植する開拓者の模範ともなった。

 屯田兵は防備の役割を担ったため、兵村は一大兵営でもあった。そこに1ケ中隊と言う陸軍の戦闘1単位を作り、それが2から4で一大隊を形成した。太平洋戦争の終結後、北海道を防備している自衛隊は、屯田兵と組織的には全く異なるが、ともに志願者の集団である点で一致している。

 明治年間、北海道を早急に開拓するという使令は、「北門の鎖鑰」を固めることでもあり、国家の一大事業だった。その担い手の一つが屯田兵とその家族であり、その実践はすべて試験的に進められた。北海道の未開地で越年し、しかも集団で農業経営したのは初めての経験だった。それを成功に導いたのは、ほかならぬ屯田兵だった。屯田兵は禁じられた水稲づくりに挑戦し、何回か営倉に入れられながらも試作を続け、成功したとされる。

 困難の中にあって工夫し、根気よく実行を重ねた彼らの開拓者精神こそが、現在の北海道発展の礎となったことは、後世にながく伝えられるべきである。

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