屯田兵制度

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屯田兵制度についてのまとめ 屯田兵制度

目次

屯田兵前史

「北門の鎖鑰」

「鎖鑰(さやく)」—「かぎ」と「じょう」で、門戸のしまりという意味。「北門の鎖鑰」という語句が使用されたのは、宋史、冠準伝「北門鎖鑰、非準不可」と記したのが初めてとされる。
 中国では古い時代から使用されているが、日本では徳川中期頃から明治時代にかけて、東蝦夷・西蝦夷・北蝦夷(サハリソ)・千島列島など日本の北方領土に関心を持っていた人々が、しばしばこの言葉を使用した。当時のロシアの南下政策に対する不安や恐怖が背景にあった。
 このロシアに対する恐怖感が、明治初期の北海道における開拓事業という発想にもつながった。


ロシアの南下政策

 ロシアがウラル山脈を越えてシベリヤを侵略し始めたのは、皇帝イワン四世の時代の1581(天正9)年だった。エルマークというヴォルガ河の盗賊を首領として、その兵力はコサック兵を中心に800人で、鉄砲で武装していたと言われている。当時シベリヤで強大な勢力を持っていた韃靼(だったん)人の本拠を襲った後東進を続け、約100年後の1697(元禄10)年にはカムチャッツカ半島に到達した。
 ロシアの目的は、当時ヨーロッパの婦人らの間で大流行したテンやラッコその他の毛皮を獲得するためだった。商人はそれをヨーロッパヘ持って行くだけで相当な利益が出ることから、略奪隊に金を惜しまず出した。
 1778(安永7)年、ロシア商人が北海道のノツマカップ(現・根室市)で松前藩の役人と初めて接触し通商交易を申し出た。これに対して松前藩は翌年、「日本はいま鎖国であるから通商が出来ない、もし是非と言うなら長崎へ行って交渉してくれ、又、航海の物資が必要なら千島の国後島でアイヌと交易してくれ」と回答した。松前藩では、藩主の相続をめぐる混乱期にあり、このことは幕府に報告されなかった。


幕府の蝦夷地支配

 幕府は、蝦夷他の状態が次第に明らかになると、このままではロシアの南下政策に対処できないと判断して蝦夷地を幕府直轄とし、東北地方の諸藩に命じて藩兵を派遣して防備することにした。同時に、干鳥、北蝦夷の調査に乗り出し、近藤重蔵や最上徳内が探検した。  彼らが千島を探検した時、ロシア人は既にウルップ島をはじめ国後・択捉島に上陸し、島のアイヌ人を脅迫したり、懐柔したりして目的のラッコをどんどん捕獲していた。その後、1811(文化8)年には、来航したロシア艦長ゴローニンが、警備の藩兵に逮捕される事件も起きた。
 しかし、当時の日本は幕末の混乱期にさしかかった時期で、幕府は「北門の鎖鑰」には消極的だった。1855(安政元)年、アメリカと和親条約を止むなく締結し、その年の11月には、日露和親条約も結んだ。樺太は雑居制を約束し、北方領土はいつどんなことになるのか判らない状態になっていた。


明治維新と北海道

 鳥羽・伏見の戦いを端緒に戊辰戦争が始まった1868(明治元)年1月、公卿の清水谷公考は、蝦夷地の現況を明治政府に説明し、この地に鎮撫使を派遣するよう建議した。日本の北方領土の状態を良く理解していなかった新政府は、この建議を採用し、内戦の進行中にもかかわらず蝦夷地に行政機関として箱館府を設置することを1月中に決定し、清水谷を知事に任命した。


箱館戦争

 1868(明治元)年4月上旬、清水谷公考は部下の官吏と警護士を連れて箱館に赴任し、直ちに幕府の箱館奉行を廃止し、箱館府庁を設置して事務引継ぎを行い箱館周辺に警護兵を募り砲兵51人を置き、新兵隊とし、在住の箱館奉行の兵をも全部箱館府の指揮下とした。
 しかし、東北戦争の終結後、榎本武揚が、幕府脱走軍を指揮して北海道に上陸し、北海道共和国(蝦夷共和国)を創るとして箱館へ向って進撃を始めたため、清水谷知事は止むなく10月、青森へ退却した。政府は翌年の2月頃から黒田清隆を参謀として、榎本軍を掃討する作戦を始めた。5月に入って箱館戦争は、脱走軍の降服によって終結し、国内戦はこれで終焉したが、北海道の行政機関の設置は遅れることになった。


札幌開府

 1868(明治元)年7月、政府は人心を一新するため蝦夷地を北海道と改称し、行政機関を開拓使と称し、その長官に鍋島直正を任命し、次官に清水谷公考を命じ、その他開拓判官に岡本監輔や松浦武四郎らを採用した。その中の一人として佐賀藩士・島義勇が判官として開拓使に出仕し、直ちに札幌北府の建設を命ぜられ、11月、銭函に仮出張所を設けた。
 島判官は冬期の雪吹の時期に札幌の中央に当たる大通公園、創成川に基線を作成し公館や公舎を作り、まちづくりの基礎を描いた。しかし、小樽地区の金融・資材・生活用品などを支配する陸軍省が、開拓使による本府設置に非協力的だったこともあり、建設費用が予想以上にかさみ、予算が桁違いの数字になってしまった。  この結果、初代開拓長官・鍋島直正の後を受けた東久世通禧長官と意見が対立した島判官は、1869(明治2)年2月上旬に更迭され帰京した。それでも、本府設置にかける意欲は並々ならぬものがあって、赴任から更迭までの間に建設構想の基礎が出来上がっていたことから、島判官は「北海道開拓の父」として北海道神宮の境内にある開拓神社に祭られている。


樺太の紛争

 雑居制がとられた樺太では、日本人とロシア人との紛争が次々と発生した。特に、日本の内戦・戊辰戦争の間は、日本からの出兵の余裕はないとみたロシア側は、日本の施設・住居・アイヌ人の墓所などを破壊するなどますます挑戦的な態度に出てきた。岡本監輔判官は、この実情を政府に報告すると共に出兵するよう建議した。しかし、政府内では出兵論、外交交渉論、樺太放棄論などがあって、明確な政策を打ち出せずにいた。
 政府は止むを得ず、英国公使の意見を求めたところ、「ロシア帝国は今やヨーロッパでも列強国の一つで、日本の現況と比較すると国力の差が大きい。この際、北海道の防備を固めるのが最も賢明である」との見解を得た。これに従って外交交渉に力を注ぐ方針を固め、二代長官に就任した東久世通禧に次の通達を伝えた。

一、北海道ハ皇国之北門、最要衝之地ナリ。今般開拓被仰付侯ニ付テハ深聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ敦ス可キ事。 一、内地人民漸次移住ニ付土人ト協和、生業蕃殖侯様開化心ヲ尽ス可キ事。 一、樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ立トシ、条理ヲ尽シ、軽卒之振舞曲ヲ我ニ取ル事アル可ラス。自然渠ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ、一人一己ノ挙動アル可カラス。心へ全府決議之上是非曲直ヲ正シ、渠ノ領事官ト談判可致、其上猶忍ブ可カラサル儀ハ、延議ヲ経、全国之カヲ以テ相応スベキ事ニ付、平居小事ヲ忍ンデ大謀ヲ誤マサル様心ヲ尽スヘキ事。 一、味方新造之国、官員協和戮カニ非サレバ、遠大之業決シテ成功スベカラザル事ニ付、上下高卑ヲ論ゼズ、毎事己推シ、誠ヲ披キ以テ従事、決シテ面従腹非之儀アル可カラサル事。   明治二年九月 右大臣
 政府は、出兵論を主張した鍋島直正を開拓長官から大納言へ転出させることによって、事態の収拾を図った。


黒田清隆の登場

 黒田清隆は箱館戦争後、陸軍省の大局として敵将・榎本武揚の死刑に対し罪一等を免ずる請願を行うなど細かな心情の持主だったが、軍人気質で洞察力に優れた人物でもあった。一時、東京都知事にと言う話もあったが、大久保利通の推薦によって北海道開拓使次官に任命された。彼は国内の機構整備、人材登用を主張し外事関係は従にすべきで、樺太問題についても放棄するも止むを得ないと主張していた。
 1870(明治3)年5月、黒田は樺太専任に命じられると、7月には樺太の実情視察のため出張した。現地ではロシア側の責任者と面会したが、先方の態度が一方的で妥協する余地もないことから、ますます持論の樺太放棄に傾いていった。帰途、北海道の西側から中央の奥地にまで入り、気候・風土を確かめ、アイヌ人の生活ぶりなどを視察して北海道の民情の理解に努めた。
 帰京した黒田は、北方領土の施策に対して概ね次のような建議をした。

 ① 石狩に全道を総括する鎮府を置くこと。  ② 総督には大臣級を任命すること。  ③ 道内を統括するには諸県とすること。  ④ 歳費を150万両とすること。  ⑤ 樺太を北海道開拓使が統治すること。  ⑥ 開拓のため外国人を招聘すること。  ⑦ 人材確保を目的で留学生を外国に派遣すること。  ⑧ 開拓器機を外国から購入すること。  ⑨ 日本人を早速に移住させること。

 この黒田次官の建議は、政府内に大きな反響を呼び、次のような太政大臣三条実美の名で通告が出された。

 ① 来年春夏に北海道を巡見して大臣又は納言が出張を決定、大綱を作成する。但しその細目は次官が帰朝後に実施。  ② 大臣、大納言が決定するまで現長官に委任する。  ③ 次官は外国を視察すること。  ④ 前項の出張時に、開拓計画に堪能な人物を招聘すること。  ⑤ 招聘する外国人の費用は開拓使の定額以外で支出すること。  ⑥ 留学者は次官が出張時に同行させる、そのための人選を行うこと。
 政府が北海道の方向を決定したので、北海道の将来は黒田次官の実行力にかかることになった。1871(明治4)年春、黒田はアメリカヘ渡り、駐米公使だった森有礼と連絡を取って米国大統領と面会の打合せをするとともに、北海道の開拓に必要な人材を探し求めた。
 森公使は、米国内務省の官吏に相談し、米国農務省総裁・ケプロンを推挙した。黒田次官はケプロンに面接し、直ちに開拓総顧問となるよう依頼した。この経緯は、逢坂信吾「黒田清隆とホーレン・ケプロン」の中のケプロンが森公使に宛てた書状に詳しく記載されている。
 1871(明治4)年7月、ケプロン一行は日本に来て天皇に謁見し、北海道開拓の第一歩を踏み出すことになった。ただ一つ残っていたのが、北海道の治安と国防の問題だった。


屯田兵制度の創設


制度案

 北海道に鎮台を設置する案は、1871(明治4)年6月に参議に任じられた当時の西郷隆盛の発想だった。北海道は他府県と違って人口が僅少なので四鎮台と同じように徴兵令を施行することができないから、移住者を土着兵として鎮台を設置するという案である。同年8月、部下の桐野利秋少将を北海道へ派遣したのも、函館の兵力の状態や鎮台設置の予定地、札幌周辺を調査するためだった。帰京した桐野少将は、札幌西部の琴似周辺が有望であると回答した。

 西郷は鎮台設置案を実施するつもりだったが、1873(明治6)年10月、征韓論に破れて失脚し下野した。そのころから黒田清隆は、開拓使の部下に命じて屯田兵の具体的な方法を検討させ、安田定則、永山盛弘、永山武四郎、時任為基らは建議案を次官に提出した。黒田次官は大久保利通を通じて岩倉左大臣に部下の屯田兵制に関する建議書を提出し、同じ11月に自らが屯田兵の建白書を太政大臣に提出した。政府内に部下が書いた制度実施案に賛成する人たちがいることを察知したからだった。


道南の騒乱事件

 鎮台・屯田兵構想が練られた時期に前後する1873(明治6)年6月、北海道では初めて漁民の騒乱事件が発生した。開拓使の設置時には青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区が、この年から開拓使の管轄下に置かれた際、青森県下では5%だった漁税が10%に引き上げられたのが発端だった。これを不満とする漁民らは、6月の中旬から福山で22戸、江差では7戸が、税金掛の住宅をはじめ民家を壊し始め、やがて他の村にも波及し始めた。

 函館支庁の責任者・杉浦誠は部下と相談して直ちに東京にいる黒田次官に報告し、青森に在ある鎮台の屯営に対して兵隊の派遣を要請した。6月26日、黒田次官が現場に到着しこの事件を処理した。全国では農民の一揆が相当な数になっていたものの、北海道では初めての事件で、しかも他県から軍隊を派遣したのは初めてだった。

 道南の騒乱を契機に、道内では治安対策が必要であり、樺太雑居制による紛争が道内に波及する可能性もあることから、北海道に屯田兵を設置する必要があるという意見が政府内にも広がった。これを機に黒田次官は11月、屯田兵制度の建白書を提出したのだった。


制度実施の決裁

 太政官は、黒田清隆から出された屯田兵設置に関する建議を左院、陸軍省、海軍省、大蔵省に提出し、この意見を文章で回答するよう求めた。各省にはほとんど反対意見がなく、実施上の細部については陸軍省と開拓使とが詳細に検討する必要があるとの条件が付された。建議書提出から約1ケ月で太政官の決定が下されるのは、この屯田兵制度が時宜にかなった緊急かつ重要な事項であったことを物語っている。

 1873(明治6)年12月25日、屯田兵制度の実施が決裁された。

     御達書 其使管轄北海道へ招募移住之儀、見込通聞届侯条、屯田演武之方法等ハ都テ陸軍省商議之上尚可伺出、尤右入費大蔵省借入未納金ヲ以テ相充侯儀ハ難聞届、其使中出之通金六拾八万円三ケ年間二割合別途可相度ニ付、大蔵省へ協議及クヘク、此旨相違侯事。  但移住授産之儀八着手次第時々可申出、且軍艦巡航之儀ハ別段海軍省へ相違侯事。

 決定された制度を実施するに当たっては、人事関係をいかに行うか、実施する基礎的な規則をどのように決めるかが必要だった。特に、屯田兵には守人としての性格と開拓事業に従事するという二重の性格を持っていたため、難しい問題だった。これに関して1874(明治7)年3月、開拓使側から開拓使長官が陸軍将官を兼務することによってこの問題を解決したいとの提案が政府に出された。

 太政官は直ちに関係省と再度協議することになったが、ロシア公使から外務省に、「今般北海道へ6千人の屯田兵を配置し、その中から2千人を樺太へ派遣するとの噂があるが、真否を回答してもらいたい」との質問状が出された。これに対して太政官は、「屯田憲兵は治安要員であって、年間500人とその家族2千人、それが3ケ年間に北海道へ移住するという計画であって、樺太へ派遣するという計画は全くない」という内容を外務省を通じて回答することとした。

 ロシア側の反応もあって、早急に屯田制度を実施して既成事実を作って置く方が有利であるとの判断で、陸軍省と開拓使とが一致することになった。この結果、黒田次官を陸軍中将に任じることで、屯田兵の二つの性格を同時に満たし、屯田兵の幹部も軍事訓練と開拓事業を並行して実施することになった。幹部らは、准陸軍少尉などと形式的に陸軍の頭に「淮」を冠することにした。


屯田憲兵例則の制定

 屯田憲兵例則は、編制、任務、貸与品、兵器、昇給、休日、罪のことなど8項目について記してある。開拓使の関係者が案を作り、陸軍省の関係者と検討して決めたが、何分にも過去に例のないものだったため、作成には約3ケ月を要し、実施中においてさまざまな不備な点も浮上し、その都度追加修正された。開拓使は1873(明治7)年10月30日、以下の内容の例則案を政府に提出した。
 

  屯田憲兵例則ノ義伺 北海道屯田兵設置ノ義、演武ノ方法等ハ陸軍省商議ノ上可伺出旨昨年十二月中御達相成居候処、憲兵ノ本旨ニ基キ実際ノ事状ヲ参酌致シ、陸軍省照会ヲ経、別紙ノ通地方適宜ノ方法調査致候。尤モ実施施行ノ際万一差支ノ廉有之節ハ、臨機処分ノ上開申可仕候条、此旨御允裁有之度、此段奉伺候也。   御指令伺之趣聞届候事。


 屯田兵の基本法が政府から許可を受けると、屯田兵とその家族の入植準備が進められた。屯田兵の招募について、黒田次官の建白書では、青森・宮城・酒田3県にいる士族で生活に困窮している者を招募すると、書かれており、その士族は戊辰戦争のときの賊軍を指していた。

 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。

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