「屯田兵制度」の版間の差分

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 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。
 
 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。
 
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== 屯田兵村の形成 ==
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=== 最初の屯田兵 ===
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 1875(明治8)年5月、青森・宮城・酒田3県と道内の函館周辺にいた士族ら合計198戸、その家族965人が、札幌の西方の琴似兵村へ入植した。翌年には札幌の南方の山鼻兵村へ240戸が入植した。それに加えて琴似兵村の補充屯田兵32名として発寒兵村へ入植し、3名は琴似兵村不足分だった。この年は275戸とその家族1、074人が東北地方の各県と既に伊達邦直に従い入植していた人たちの中から屯田兵を選択した53名だった。<br>
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 これらの人達は開拓使が招募した第1回の屯田兵で、この480名の屯田兵は琴似兵村が第一中隊となり、山鼻兵村が第二中隊となり、屯田兵第一大隊を編成した。開拓使は1877(明治10)年にも前年通り屯田兵を入植させる予定だったが、九州地方で西郷隆盛が賊軍となって反乱を起したため、その年の2月、屯田兵部隊は直ちに屯田事務総理・黒田清隆の指令によって先ず、1ケ小隊が函館へ派遣された。その理由は本州・青森港から潜入する敵軍の関係者を警戒するとともに物資を敵側に流れることのないように警備することだった。しかし、間もなく函館派遣隊は小樽港に待機を命ぜられ、4月上旬には出征する屯田部隊の本隊と合流して、九州の戦場へ向った。<br>
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=== 西南戦争に出征 ===
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 西南戦争に出征した屯田兵部隊は、幹部の多くは西郷軍と同じ鹿児島出身であり、屯田兵は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた本人や子孫が大半であるという奇好な性格を持っていた。従って屯田兵部隊の幹部は親兄弟と戦わなければならず、一方で、屯田兵は親兄弟を殺した敵に対して仇を取る機会が巡り来たと感じていた。<br>
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 屯田兵部隊は4月25日、肥後国小島字百貫口(熊本県)という所に停泊し小島に一泊した。27日、別動第二旅団に編入され、八代台より人吉方面の敵を攻撃しつつ進出せよと、総覧本営から命令を受けた。この戦闘中、最も激戦だったのは、8月2日の一瀬川の戦いで、この戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っている。<br>
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 西南戦争で屯田部隊は7人の戦死と多くの負傷者を出したが、その終焉をまたずに帰途につき、東京でしばらく休んで9月29日、小樽港に帰還して琴似・山鼻両兵村へ帰った。屯田兵が戦闘に参加していた期間は、開拓事業に従事することができなくなったため開拓使は、政府に伺いを出して、扶助期間が3ケ年という規定を1ケ年延長する措置を取った。これにより、屯田兵たちは、かつての賊軍の汚名を返上してはっきり朝廷側になったことを政府が承認したと確信することになった。<br>
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 開拓使は、北海道在住の士族移住者らを招募して軍事訓練を行い、東京に集結・待機させた西南戦争の動員計画を参考に、内外で不測の事態が発生した場合を考慮して彼らを屯田予備兵とする「屯田兵予備兵条例」を施行した。しかし、この条例は1881(明治14)年に廃止された。<br>
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=== 屯田兵の補充 ===
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 開拓使時代に屯田兵が入植したのは、1878(明治11)年に札幌の東方の江別兵村に僅かに10名、1881(明治14)年に江別兵村の分隊として石狩川対岸に当たる篠津兵村への20名の入植が実現しただけだった。この屯田兵の出身地は東北地方の人々だった。予定した3ケ年間の入植が出来なかったのはさまざまな原因があったが、その主な理由は屯田兵の入植実施に伴う費用が予想以上に要したからだった。<br>
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 1882(明治15)年2月、開拓使が廃止され、札幌・函館・根室3県及び事業局の3県1局の時代となったため、屯田兵は陸軍省の管轄下に入った。しかし、管理運営は北海道全般の予算から支出することになり、屯田兵入植に関する費用は含まれていなかった。
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 その間、農商務省は全国の士族が失業して疲弊しているのを見て、北海道に開拓移住を計画し「移住士族取扱規則」を施行した。1882(明治15)年から1889(明治22)年までの間に、毎年250戸(札幌県150戸、函館県50戸、根室県50戸)を入植させる計画で、2年次まで実施された。<br>
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 ところが、この計画は2年目で中止となり、その予算の残額を屯田兵の入植に振替え、1884(明治17)年から5年計画を実施することになった。この振替え計画は、屯田事務局の永山武四郎局長が江別兵村をそのままに放置すると孤立してしまうこと、太平洋沿岸に屯田兵村を設置して屯田兵を入植しなければ、ロシア側がいつ上陸するか知れないことなどを政府に陳情した結果だった。<br>
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 5ケ年計画に従って1884(明治17)年から江別の追加入植が行われ、翌、翌々年の江別の補充、野幌兵村の220戸入植をはじめ、根室の和田兵村220戸の入植が行われた。1887(明治20)年には室蘭地区の輪西兵村及び札幌の北方の新琴似に兵村を設置して屯田兵を入植させた。<br>
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=== 兵村の増植計画 ===
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 屯田兵の補充が5ケ年計画で実施され、その効果が上々であることを政府も認めた。そこで、屯田事務局は新たに増植計画を実施するために屯田兵の組織を変更し、機能を拡大して受入れ対策の強化に乗り出した。その第一は基本法である「屯田兵条例」や召募規則を整備すること、第二には幹部の育成計画だった。そのため札幌農学校の生徒の中から屯田兵の幹部を教育する道を開くことと同時に、既に入植している琴似・山鼻両兵村の屯田兵の中から優秀な者を選択して札幌農学校へ入学させ、幹部を養成した。<br>
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 次に、屯田兵の中央機関を屯田兵本部と改称し、その本部長を陸軍少将とし、陸軍省の編制から見ると、独立旅団と同格となった。規則、組織、機構を拡大して屯田兵の増殖計画を立て、実施できたのは、1888(明治21)年4月に黒田清隆が総理大臣になったことと無縁でない。北海道の実情を深く理解していた黒田は、将来についても強い関心を持っていた。
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 永山武四郎屯田兵本部長は1889(明治22)年、屯田兵20ケ中隊編成の計画を提出した。北海道の拠点、特に開拓を主体として石狩川流域に20ケ中隊すなわち1ケ中隊220名とその家族を入植させる計画で、その数は計4,400名となる。計画は承認され、この年から篠路兵村に220名、西和田兵村に追加分100名、輪西兵村にも追加分110名の入植を見た。翌年には厚岸町の太田両兵村440名と滝川両兵村400名の入植が実現した。<br>
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 ところが、1890(明治23)年になって、帝国議会の施行に基づいて議会で年間予算を審議することになり、1891(明治24)年を初年度として毎年500名の屯田兵を入植する予算が決定された。<br>
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=== 士族屯田から平民屯田へ ===
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 屯田兵を志願する者には、いろいろな資格要件があり、例えば年齢の制限とか家族数とかがあったが、その一つに士族でなければ応募できないという条件があった。しかし、1890(明治23)年に、次年度から士族・平民が応募できることになった。<br>
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 開拓使時代の当初、指定県庁に対する召募依頼状では「士族のみ」となっていたが、士族だけでは予定の屯田兵募集散が満たされないため、平民も応募できると追加依頼状を県庁へ送った経緯があった。また、江別及び篠津兵村の入植時に「士族・平民ともに資格がある」としていたが、実際には平民(農民)のみが屯田兵に応募して入植した。<br>
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 陸軍省時代になって、1884(明治17)年より1890(明治23)年までは、士族のみを入植の条件としていた。これは次のような形式になってういた。<br>
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  「陸軍省告示第十五号
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今般左ノ各県士族中ヨリ屯田兵志願者ヲ徴募シ、来明治二十三年五月北海道石狩国空知郡、釧路国厚岸郡両所ノ内ニ在住セシメ、……云々」
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  明治二十二年九月二十八日
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      陸軍大臣 大山巌  (法令全書)<br>
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となって士族のみを指示している。これが、次年には次のようになっている。<br>
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  「陸軍省告示第十号
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左ノ各県士族平民ヨリ屯田兵四百戸、屯田騎兵四十戸、屯田砲兵屯田工兵各三十戸ヲ明治二十四年四月云々……」
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  明治二十三年十月二十五日
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      陸軍大臣 大山巌<br>
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となっている。これは5ケ年計画に従って入植した屯田兵は形式的に士族のみとなっているが、その理由は農商務省による「移住士族取扱規則」の予算残額を流用したため平民の入植ができなかったと考えられる。実際には士族以外の者が士族の家名を金銭で買受け、入植した者がおり、これを「士族の株」といって、徳川中期頃から下級武士の家名を売買する習慣があったので、それほど奇異なことではなかった。<br>
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 また、士族は長男のみが家督相続することができて、次男や三男は平民となる規定があったから、あまり意味がなくなっていた。従って、屯田兵には士族・平民ということはあまり重要な要素ではなかった。実際に、1891(明治24)年以降の入植者の中にも、多くの士族の人々がいたといわれる。

2013年6月22日 (土) 16:39時点における版

屯田兵制度についてのまとめ 屯田兵制度

目次

屯田兵前史

「北門の鎖鑰」

「鎖鑰(さやく)」—「かぎ」と「じょう」で、門戸のしまりという意味。「北門の鎖鑰」という語句が使用されたのは、宋史、冠準伝「北門鎖鑰、非準不可」と記したのが初めてとされる。
 中国では古い時代から使用されているが、日本では徳川中期頃から明治時代にかけて、東蝦夷・西蝦夷・北蝦夷(サハリソ)・千島列島など日本の北方領土に関心を持っていた人々が、しばしばこの言葉を使用した。当時のロシアの南下政策に対する不安や恐怖が背景にあった。
 このロシアに対する恐怖感が、明治初期の北海道における開拓事業という発想にもつながった。


ロシアの南下政策

 ロシアがウラル山脈を越えてシベリヤを侵略し始めたのは、皇帝イワン四世の時代の1581(天正9)年だった。エルマークというヴォルガ河の盗賊を首領として、その兵力はコサック兵を中心に800人で、鉄砲で武装していたと言われている。当時シベリヤで強大な勢力を持っていた韃靼(だったん)人の本拠を襲った後東進を続け、約100年後の1697(元禄10)年にはカムチャッツカ半島に到達した。
 ロシアの目的は、当時ヨーロッパの婦人らの間で大流行したテンやラッコその他の毛皮を獲得するためだった。商人はそれをヨーロッパヘ持って行くだけで相当な利益が出ることから、略奪隊に金を惜しまず出した。
 1778(安永7)年、ロシア商人が北海道のノツマカップ(現・根室市)で松前藩の役人と初めて接触し通商交易を申し出た。これに対して松前藩は翌年、「日本はいま鎖国であるから通商が出来ない、もし是非と言うなら長崎へ行って交渉してくれ、又、航海の物資が必要なら千島の国後島でアイヌと交易してくれ」と回答した。松前藩では、藩主の相続をめぐる混乱期にあり、このことは幕府に報告されなかった。


幕府の蝦夷地支配

 幕府は、蝦夷他の状態が次第に明らかになると、このままではロシアの南下政策に対処できないと判断して蝦夷地を幕府直轄とし、東北地方の諸藩に命じて藩兵を派遣して防備することにした。同時に、干鳥、北蝦夷の調査に乗り出し、近藤重蔵や最上徳内が探検した。  彼らが千島を探検した時、ロシア人は既にウルップ島をはじめ国後・択捉島に上陸し、島のアイヌ人を脅迫したり、懐柔したりして目的のラッコをどんどん捕獲していた。その後、1811(文化8)年には、来航したロシア艦長ゴローニンが、警備の藩兵に逮捕される事件も起きた。
 しかし、当時の日本は幕末の混乱期にさしかかった時期で、幕府は「北門の鎖鑰」には消極的だった。1855(安政元)年、アメリカと和親条約を止むなく締結し、その年の11月には、日露和親条約も結んだ。樺太は雑居制を約束し、北方領土はいつどんなことになるのか判らない状態になっていた。


明治維新と北海道

 鳥羽・伏見の戦いを端緒に戊辰戦争が始まった1868(明治元)年1月、公卿の清水谷公考は、蝦夷地の現況を明治政府に説明し、この地に鎮撫使を派遣するよう建議した。日本の北方領土の状態を良く理解していなかった新政府は、この建議を採用し、内戦の進行中にもかかわらず蝦夷地に行政機関として箱館府を設置することを1月中に決定し、清水谷を知事に任命した。


箱館戦争

 1868(明治元)年4月上旬、清水谷公考は部下の官吏と警護士を連れて箱館に赴任し、直ちに幕府の箱館奉行を廃止し、箱館府庁を設置して事務引継ぎを行い箱館周辺に警護兵を募り砲兵51人を置き、新兵隊とし、在住の箱館奉行の兵をも全部箱館府の指揮下とした。
 しかし、東北戦争の終結後、榎本武揚が、幕府脱走軍を指揮して北海道に上陸し、北海道共和国(蝦夷共和国)を創るとして箱館へ向って進撃を始めたため、清水谷知事は止むなく10月、青森へ退却した。政府は翌年の2月頃から黒田清隆を参謀として、榎本軍を掃討する作戦を始めた。5月に入って箱館戦争は、脱走軍の降服によって終結し、国内戦はこれで終焉したが、北海道の行政機関の設置は遅れることになった。


札幌開府

 1868(明治元)年7月、政府は人心を一新するため蝦夷地を北海道と改称し、行政機関を開拓使と称し、その長官に鍋島直正を任命し、次官に清水谷公考を命じ、その他開拓判官に岡本監輔や松浦武四郎らを採用した。その中の一人として佐賀藩士・島義勇が判官として開拓使に出仕し、直ちに札幌北府の建設を命ぜられ、11月、銭函に仮出張所を設けた。
 島判官は冬期の雪吹の時期に札幌の中央に当たる大通公園、創成川に基線を作成し公館や公舎を作り、まちづくりの基礎を描いた。しかし、小樽地区の金融・資材・生活用品などを支配する陸軍省が、開拓使による本府設置に非協力的だったこともあり、建設費用が予想以上にかさみ、予算が桁違いの数字になってしまった。  この結果、初代開拓長官・鍋島直正の後を受けた東久世通禧長官と意見が対立した島判官は、1869(明治2)年2月上旬に更迭され帰京した。それでも、本府設置にかける意欲は並々ならぬものがあって、赴任から更迭までの間に建設構想の基礎が出来上がっていたことから、島判官は「北海道開拓の父」として北海道神宮の境内にある開拓神社に祭られている。


樺太の紛争

 雑居制がとられた樺太では、日本人とロシア人との紛争が次々と発生した。特に、日本の内戦・戊辰戦争の間は、日本からの出兵の余裕はないとみたロシア側は、日本の施設・住居・アイヌ人の墓所などを破壊するなどますます挑戦的な態度に出てきた。岡本監輔判官は、この実情を政府に報告すると共に出兵するよう建議した。しかし、政府内では出兵論、外交交渉論、樺太放棄論などがあって、明確な政策を打ち出せずにいた。
 政府は止むを得ず、英国公使の意見を求めたところ、「ロシア帝国は今やヨーロッパでも列強国の一つで、日本の現況と比較すると国力の差が大きい。この際、北海道の防備を固めるのが最も賢明である」との見解を得た。これに従って外交交渉に力を注ぐ方針を固め、二代長官に就任した東久世通禧に次の通達を伝えた。

一、北海道ハ皇国之北門、最要衝之地ナリ。今般開拓被仰付侯ニ付テハ深聖旨ヲ奉体シ撫育之道ヲ尽シ教化ヲ広メ風俗ヲ敦ス可キ事。 一、内地人民漸次移住ニ付土人ト協和、生業蕃殖侯様開化心ヲ尽ス可キ事。 一、樺太ハ魯人雑居之地ニ付専ラ礼節ヲ立トシ、条理ヲ尽シ、軽卒之振舞曲ヲ我ニ取ル事アル可ラス。自然渠ヨリ暴慢非義ヲ加ル事アルトモ、一人一己ノ挙動アル可カラス。心へ全府決議之上是非曲直ヲ正シ、渠ノ領事官ト談判可致、其上猶忍ブ可カラサル儀ハ、延議ヲ経、全国之カヲ以テ相応スベキ事ニ付、平居小事ヲ忍ンデ大謀ヲ誤マサル様心ヲ尽スヘキ事。 一、味方新造之国、官員協和戮カニ非サレバ、遠大之業決シテ成功スベカラザル事ニ付、上下高卑ヲ論ゼズ、毎事己推シ、誠ヲ披キ以テ従事、決シテ面従腹非之儀アル可カラサル事。   明治二年九月 右大臣
 政府は、出兵論を主張した鍋島直正を開拓長官から大納言へ転出させることによって、事態の収拾を図った。


黒田清隆の登場

 黒田清隆は箱館戦争後、陸軍省の大局として敵将・榎本武揚の死刑に対し罪一等を免ずる請願を行うなど細かな心情の持主だったが、軍人気質で洞察力に優れた人物でもあった。一時、東京都知事にと言う話もあったが、大久保利通の推薦によって北海道開拓使次官に任命された。彼は国内の機構整備、人材登用を主張し外事関係は従にすべきで、樺太問題についても放棄するも止むを得ないと主張していた。
 1870(明治3)年5月、黒田は樺太専任に命じられると、7月には樺太の実情視察のため出張した。現地ではロシア側の責任者と面会したが、先方の態度が一方的で妥協する余地もないことから、ますます持論の樺太放棄に傾いていった。帰途、北海道の西側から中央の奥地にまで入り、気候・風土を確かめ、アイヌ人の生活ぶりなどを視察して北海道の民情の理解に努めた。
 帰京した黒田は、北方領土の施策に対して概ね次のような建議をした。

 ① 石狩に全道を総括する鎮府を置くこと。  ② 総督には大臣級を任命すること。  ③ 道内を統括するには諸県とすること。  ④ 歳費を150万両とすること。  ⑤ 樺太を北海道開拓使が統治すること。  ⑥ 開拓のため外国人を招聘すること。  ⑦ 人材確保を目的で留学生を外国に派遣すること。  ⑧ 開拓器機を外国から購入すること。  ⑨ 日本人を早速に移住させること。

 この黒田次官の建議は、政府内に大きな反響を呼び、次のような太政大臣三条実美の名で通告が出された。

 ① 来年春夏に北海道を巡見して大臣又は納言が出張を決定、大綱を作成する。但しその細目は次官が帰朝後に実施。  ② 大臣、大納言が決定するまで現長官に委任する。  ③ 次官は外国を視察すること。  ④ 前項の出張時に、開拓計画に堪能な人物を招聘すること。  ⑤ 招聘する外国人の費用は開拓使の定額以外で支出すること。  ⑥ 留学者は次官が出張時に同行させる、そのための人選を行うこと。
 政府が北海道の方向を決定したので、北海道の将来は黒田次官の実行力にかかることになった。1871(明治4)年春、黒田はアメリカヘ渡り、駐米公使だった森有礼と連絡を取って米国大統領と面会の打合せをするとともに、北海道の開拓に必要な人材を探し求めた。
 森公使は、米国内務省の官吏に相談し、米国農務省総裁・ケプロンを推挙した。黒田次官はケプロンに面接し、直ちに開拓総顧問となるよう依頼した。この経緯は、逢坂信吾「黒田清隆とホーレン・ケプロン」の中のケプロンが森公使に宛てた書状に詳しく記載されている。
 1871(明治4)年7月、ケプロン一行は日本に来て天皇に謁見し、北海道開拓の第一歩を踏み出すことになった。ただ一つ残っていたのが、北海道の治安と国防の問題だった。


屯田兵制度の創設


制度案

 北海道に鎮台を設置する案は、1871(明治4)年6月に参議に任じられた当時の西郷隆盛の発想だった。北海道は他府県と違って人口が僅少なので四鎮台と同じように徴兵令を施行することができないから、移住者を土着兵として鎮台を設置するという案である。同年8月、部下の桐野利秋少将を北海道へ派遣したのも、函館の兵力の状態や鎮台設置の予定地、札幌周辺を調査するためだった。帰京した桐野少将は、札幌西部の琴似周辺が有望であると回答した。

 西郷は鎮台設置案を実施するつもりだったが、1873(明治6)年10月、征韓論に破れて失脚し下野した。そのころから黒田清隆は、開拓使の部下に命じて屯田兵の具体的な方法を検討させ、安田定則、永山盛弘、永山武四郎、時任為基らは建議案を次官に提出した。黒田次官は大久保利通を通じて岩倉左大臣に部下の屯田兵制に関する建議書を提出し、同じ11月に自らが屯田兵の建白書を太政大臣に提出した。政府内に部下が書いた制度実施案に賛成する人たちがいることを察知したからだった。


道南の騒乱事件

 鎮台・屯田兵構想が練られた時期に前後する1873(明治6)年6月、北海道では初めて漁民の騒乱事件が発生した。開拓使の設置時には青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区が、この年から開拓使の管轄下に置かれた際、青森県下では5%だった漁税が10%に引き上げられたのが発端だった。これを不満とする漁民らは、6月の中旬から福山で22戸、江差では7戸が、税金掛の住宅をはじめ民家を壊し始め、やがて他の村にも波及し始めた。

 函館支庁の責任者・杉浦誠は部下と相談して直ちに東京にいる黒田次官に報告し、青森に在ある鎮台の屯営に対して兵隊の派遣を要請した。6月26日、黒田次官が現場に到着しこの事件を処理した。全国では農民の一揆が相当な数になっていたものの、北海道では初めての事件で、しかも他県から軍隊を派遣したのは初めてだった。

 道南の騒乱を契機に、道内では治安対策が必要であり、樺太雑居制による紛争が道内に波及する可能性もあることから、北海道に屯田兵を設置する必要があるという意見が政府内にも広がった。これを機に黒田次官は11月、屯田兵制度の建白書を提出したのだった。


制度実施の決裁

 太政官は、黒田清隆から出された屯田兵設置に関する建議を左院、陸軍省、海軍省、大蔵省に提出し、この意見を文章で回答するよう求めた。各省にはほとんど反対意見がなく、実施上の細部については陸軍省と開拓使とが詳細に検討する必要があるとの条件が付された。建議書提出から約1ケ月で太政官の決定が下されるのは、この屯田兵制度が時宜にかなった緊急かつ重要な事項であったことを物語っている。

 1873(明治6)年12月25日、屯田兵制度の実施が決裁された。

     御達書 其使管轄北海道へ招募移住之儀、見込通聞届侯条、屯田演武之方法等ハ都テ陸軍省商議之上尚可伺出、尤右入費大蔵省借入未納金ヲ以テ相充侯儀ハ難聞届、其使中出之通金六拾八万円三ケ年間二割合別途可相度ニ付、大蔵省へ協議及クヘク、此旨相違侯事。  但移住授産之儀八着手次第時々可申出、且軍艦巡航之儀ハ別段海軍省へ相違侯事。

 決定された制度を実施するに当たっては、人事関係をいかに行うか、実施する基礎的な規則をどのように決めるかが必要だった。特に、屯田兵には守人としての性格と開拓事業に従事するという二重の性格を持っていたため、難しい問題だった。これに関して1874(明治7)年3月、開拓使側から開拓使長官が陸軍将官を兼務することによってこの問題を解決したいとの提案が政府に出された。

 太政官は直ちに関係省と再度協議することになったが、ロシア公使から外務省に、「今般北海道へ6千人の屯田兵を配置し、その中から2千人を樺太へ派遣するとの噂があるが、真否を回答してもらいたい」との質問状が出された。これに対して太政官は、「屯田憲兵は治安要員であって、年間500人とその家族2千人、それが3ケ年間に北海道へ移住するという計画であって、樺太へ派遣するという計画は全くない」という内容を外務省を通じて回答することとした。

 ロシア側の反応もあって、早急に屯田制度を実施して既成事実を作って置く方が有利であるとの判断で、陸軍省と開拓使とが一致することになった。この結果、黒田次官を陸軍中将に任じることで、屯田兵の二つの性格を同時に満たし、屯田兵の幹部も軍事訓練と開拓事業を並行して実施することになった。幹部らは、准陸軍少尉などと形式的に陸軍の頭に「淮」を冠することにした。


屯田憲兵例則の制定

 屯田憲兵例則は、編制、任務、貸与品、兵器、昇給、休日、罪のことなど8項目について記してある。開拓使の関係者が案を作り、陸軍省の関係者と検討して決めたが、何分にも過去に例のないものだったため、作成には約3ケ月を要し、実施中においてさまざまな不備な点も浮上し、その都度追加修正された。開拓使は1873(明治7)年10月30日、以下の内容の例則案を政府に提出した。
 

  屯田憲兵例則ノ義伺 北海道屯田兵設置ノ義、演武ノ方法等ハ陸軍省商議ノ上可伺出旨昨年十二月中御達相成居候処、憲兵ノ本旨ニ基キ実際ノ事状ヲ参酌致シ、陸軍省照会ヲ経、別紙ノ通地方適宜ノ方法調査致候。尤モ実施施行ノ際万一差支ノ廉有之節ハ、臨機処分ノ上開申可仕候条、此旨御允裁有之度、此段奉伺候也。   御指令伺之趣聞届候事。


 屯田兵の基本法が政府から許可を受けると、屯田兵とその家族の入植準備が進められた。屯田兵の招募について、黒田次官の建白書では、青森・宮城・酒田3県にいる士族で生活に困窮している者を招募すると、書かれており、その士族は戊辰戦争のときの賊軍を指していた。

 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。


屯田兵村の形成


最初の屯田兵

 1875(明治8)年5月、青森・宮城・酒田3県と道内の函館周辺にいた士族ら合計198戸、その家族965人が、札幌の西方の琴似兵村へ入植した。翌年には札幌の南方の山鼻兵村へ240戸が入植した。それに加えて琴似兵村の補充屯田兵32名として発寒兵村へ入植し、3名は琴似兵村不足分だった。この年は275戸とその家族1、074人が東北地方の各県と既に伊達邦直に従い入植していた人たちの中から屯田兵を選択した53名だった。

 これらの人達は開拓使が招募した第1回の屯田兵で、この480名の屯田兵は琴似兵村が第一中隊となり、山鼻兵村が第二中隊となり、屯田兵第一大隊を編成した。開拓使は1877(明治10)年にも前年通り屯田兵を入植させる予定だったが、九州地方で西郷隆盛が賊軍となって反乱を起したため、その年の2月、屯田兵部隊は直ちに屯田事務総理・黒田清隆の指令によって先ず、1ケ小隊が函館へ派遣された。その理由は本州・青森港から潜入する敵軍の関係者を警戒するとともに物資を敵側に流れることのないように警備することだった。しかし、間もなく函館派遣隊は小樽港に待機を命ぜられ、4月上旬には出征する屯田部隊の本隊と合流して、九州の戦場へ向った。


西南戦争に出征

 西南戦争に出征した屯田兵部隊は、幹部の多くは西郷軍と同じ鹿児島出身であり、屯田兵は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた本人や子孫が大半であるという奇好な性格を持っていた。従って屯田兵部隊の幹部は親兄弟と戦わなければならず、一方で、屯田兵は親兄弟を殺した敵に対して仇を取る機会が巡り来たと感じていた。

 屯田兵部隊は4月25日、肥後国小島字百貫口(熊本県)という所に停泊し小島に一泊した。27日、別動第二旅団に編入され、八代台より人吉方面の敵を攻撃しつつ進出せよと、総覧本営から命令を受けた。この戦闘中、最も激戦だったのは、8月2日の一瀬川の戦いで、この戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っている。

 西南戦争で屯田部隊は7人の戦死と多くの負傷者を出したが、その終焉をまたずに帰途につき、東京でしばらく休んで9月29日、小樽港に帰還して琴似・山鼻両兵村へ帰った。屯田兵が戦闘に参加していた期間は、開拓事業に従事することができなくなったため開拓使は、政府に伺いを出して、扶助期間が3ケ年という規定を1ケ年延長する措置を取った。これにより、屯田兵たちは、かつての賊軍の汚名を返上してはっきり朝廷側になったことを政府が承認したと確信することになった。

 開拓使は、北海道在住の士族移住者らを招募して軍事訓練を行い、東京に集結・待機させた西南戦争の動員計画を参考に、内外で不測の事態が発生した場合を考慮して彼らを屯田予備兵とする「屯田兵予備兵条例」を施行した。しかし、この条例は1881(明治14)年に廃止された。


屯田兵の補充

 開拓使時代に屯田兵が入植したのは、1878(明治11)年に札幌の東方の江別兵村に僅かに10名、1881(明治14)年に江別兵村の分隊として石狩川対岸に当たる篠津兵村への20名の入植が実現しただけだった。この屯田兵の出身地は東北地方の人々だった。予定した3ケ年間の入植が出来なかったのはさまざまな原因があったが、その主な理由は屯田兵の入植実施に伴う費用が予想以上に要したからだった。

 1882(明治15)年2月、開拓使が廃止され、札幌・函館・根室3県及び事業局の3県1局の時代となったため、屯田兵は陸軍省の管轄下に入った。しかし、管理運営は北海道全般の予算から支出することになり、屯田兵入植に関する費用は含まれていなかった。

 その間、農商務省は全国の士族が失業して疲弊しているのを見て、北海道に開拓移住を計画し「移住士族取扱規則」を施行した。1882(明治15)年から1889(明治22)年までの間に、毎年250戸(札幌県150戸、函館県50戸、根室県50戸)を入植させる計画で、2年次まで実施された。

 ところが、この計画は2年目で中止となり、その予算の残額を屯田兵の入植に振替え、1884(明治17)年から5年計画を実施することになった。この振替え計画は、屯田事務局の永山武四郎局長が江別兵村をそのままに放置すると孤立してしまうこと、太平洋沿岸に屯田兵村を設置して屯田兵を入植しなければ、ロシア側がいつ上陸するか知れないことなどを政府に陳情した結果だった。

 5ケ年計画に従って1884(明治17)年から江別の追加入植が行われ、翌、翌々年の江別の補充、野幌兵村の220戸入植をはじめ、根室の和田兵村220戸の入植が行われた。1887(明治20)年には室蘭地区の輪西兵村及び札幌の北方の新琴似に兵村を設置して屯田兵を入植させた。


兵村の増植計画

 屯田兵の補充が5ケ年計画で実施され、その効果が上々であることを政府も認めた。そこで、屯田事務局は新たに増植計画を実施するために屯田兵の組織を変更し、機能を拡大して受入れ対策の強化に乗り出した。その第一は基本法である「屯田兵条例」や召募規則を整備すること、第二には幹部の育成計画だった。そのため札幌農学校の生徒の中から屯田兵の幹部を教育する道を開くことと同時に、既に入植している琴似・山鼻両兵村の屯田兵の中から優秀な者を選択して札幌農学校へ入学させ、幹部を養成した。

 次に、屯田兵の中央機関を屯田兵本部と改称し、その本部長を陸軍少将とし、陸軍省の編制から見ると、独立旅団と同格となった。規則、組織、機構を拡大して屯田兵の増殖計画を立て、実施できたのは、1888(明治21)年4月に黒田清隆が総理大臣になったことと無縁でない。北海道の実情を深く理解していた黒田は、将来についても強い関心を持っていた。

 永山武四郎屯田兵本部長は1889(明治22)年、屯田兵20ケ中隊編成の計画を提出した。北海道の拠点、特に開拓を主体として石狩川流域に20ケ中隊すなわち1ケ中隊220名とその家族を入植させる計画で、その数は計4,400名となる。計画は承認され、この年から篠路兵村に220名、西和田兵村に追加分100名、輪西兵村にも追加分110名の入植を見た。翌年には厚岸町の太田両兵村440名と滝川両兵村400名の入植が実現した。

 ところが、1890(明治23)年になって、帝国議会の施行に基づいて議会で年間予算を審議することになり、1891(明治24)年を初年度として毎年500名の屯田兵を入植する予算が決定された。


士族屯田から平民屯田へ

 屯田兵を志願する者には、いろいろな資格要件があり、例えば年齢の制限とか家族数とかがあったが、その一つに士族でなければ応募できないという条件があった。しかし、1890(明治23)年に、次年度から士族・平民が応募できることになった。

 開拓使時代の当初、指定県庁に対する召募依頼状では「士族のみ」となっていたが、士族だけでは予定の屯田兵募集散が満たされないため、平民も応募できると追加依頼状を県庁へ送った経緯があった。また、江別及び篠津兵村の入植時に「士族・平民ともに資格がある」としていたが、実際には平民(農民)のみが屯田兵に応募して入植した。

 陸軍省時代になって、1884(明治17)年より1890(明治23)年までは、士族のみを入植の条件としていた。これは次のような形式になってういた。

  「陸軍省告示第十五号 今般左ノ各県士族中ヨリ屯田兵志願者ヲ徴募シ、来明治二十三年五月北海道石狩国空知郡、釧路国厚岸郡両所ノ内ニ在住セシメ、……云々」   明治二十二年九月二十八日       陸軍大臣 大山巌  (法令全書)

となって士族のみを指示している。これが、次年には次のようになっている。

  「陸軍省告示第十号 左ノ各県士族平民ヨリ屯田兵四百戸、屯田騎兵四十戸、屯田砲兵屯田工兵各三十戸ヲ明治二十四年四月云々……」   明治二十三年十月二十五日       陸軍大臣 大山巌

となっている。これは5ケ年計画に従って入植した屯田兵は形式的に士族のみとなっているが、その理由は農商務省による「移住士族取扱規則」の予算残額を流用したため平民の入植ができなかったと考えられる。実際には士族以外の者が士族の家名を金銭で買受け、入植した者がおり、これを「士族の株」といって、徳川中期頃から下級武士の家名を売買する習慣があったので、それほど奇異なことではなかった。

 また、士族は長男のみが家督相続することができて、次男や三男は平民となる規定があったから、あまり意味がなくなっていた。従って、屯田兵には士族・平民ということはあまり重要な要素ではなかった。実際に、1891(明治24)年以降の入植者の中にも、多くの士族の人々がいたといわれる。

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