「屯田兵制度」を編集中
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開拓者は、それぞれに事情を抱えながらも、未開地へ行こうと決心するに際しては、大きな勇気が必要とされた。一般の開拓者たちは指導者が予め北海道内の場所の説明を受けて出発したのに対し、屯田兵は入植地がどんな場所かはまったく知らずに現地に入った。県庁が書いた送り状(戸籍)には、北海道の何国何郡何村……と書いてあっても、その村の場所さえはっきりせず、どんな気候風土かもわからなかった。<br> | 開拓者は、それぞれに事情を抱えながらも、未開地へ行こうと決心するに際しては、大きな勇気が必要とされた。一般の開拓者たちは指導者が予め北海道内の場所の説明を受けて出発したのに対し、屯田兵は入植地がどんな場所かはまったく知らずに現地に入った。県庁が書いた送り状(戸籍)には、北海道の何国何郡何村……と書いてあっても、その村の場所さえはっきりせず、どんな気候風土かもわからなかった。<br> | ||
− | + | 特に、九州・四国・中国地方の人々は、北国の過酷な環境については、予め説明されても、ほとんど実感できなかったとみられる。出身地から最も近い港から船に乗って、初めて将来自分の兵屋の隣人となる人に会った。毎年5、6月に移住するのが例になっていたが、春の遅い北海道の寒さは、彼らにとって厳しいものだった。<br> | |
− | + | 指揮官の言うままに兵村に到着すると、自分の兵屋となる所を見つけるのに一苦労だった。原始林の中にぽっと自分の家を見たときの心情は、多くの日記にほぼ共通して「女子供はみんな泣きました。こんなところに来て……」とつづられている。夜はフクロウのさびしい声、鹿や熊の遠吠えだけで、人の声など全く聞けなかったという。<br> | |
入地から1週間後に訓練が始まり、家族たちは開拓事業を始めたが、ラッパの響で起床するなど、初めての体験だった。「[[芋の屯田兵]]」としばしば言われたのは、官給の米をほとんど自分たちが食べず、売って日用品を買うのが兵村内の食生活だったため。日銭が全くなく、[[屯田兵]]の衣服は支給されましたが、家族の衣服はそれぞれ自分で用意しなければならなかった。<br> | 入地から1週間後に訓練が始まり、家族たちは開拓事業を始めたが、ラッパの響で起床するなど、初めての体験だった。「[[芋の屯田兵]]」としばしば言われたのは、官給の米をほとんど自分たちが食べず、売って日用品を買うのが兵村内の食生活だったため。日銭が全くなく、[[屯田兵]]の衣服は支給されましたが、家族の衣服はそれぞれ自分で用意しなければならなかった。<br> |