「屯田兵制度」を編集中
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=== 屯田兵の補充 === | === 屯田兵の補充 === | ||
− | + | 開拓使時代に屯田兵が入植したのは、1878(明治11)年に札幌の東方の江別兵村に僅かに10名、1881(明治14)年に江別兵村の分隊として石狩川対岸に当たる篠津兵村への20名の入植が実現しただけだった。この屯田兵の出身地は東北地方の人々だった。予定した3ケ年間の入植が出来なかったのはさまざまな原因があったが、その主な理由は屯田兵の入植実施に伴う費用が予想以上に要したからだった。<br> | |
− | + | 1882(明治15)年2月、開拓使が廃止され、札幌・函館・根室3県及び事業局の3県1局の時代となったため、屯田兵は陸軍省の管轄下に入った。しかし、管理運営は北海道全般の予算から支出することになり、屯田兵入植に関する費用は含まれていなかった。 | |
− | + | その間、農商務省は全国の士族が失業して疲弊しているのを見て、北海道に開拓移住を計画し「移住士族取扱規則」を施行した。1882(明治15)年から1889(明治22)年までの間に、毎年250戸(札幌県150戸、函館県50戸、根室県50戸)を入植させる計画で、2年次まで実施された。<br> | |
− | + | ところが、この計画は2年目で中止となり、その予算の残額を屯田兵の入植に振替え、1884(明治17)年から5年計画を実施することになった。この振替え計画は、屯田事務局の永山武四郎局長が江別兵村をそのままに放置すると孤立してしまうこと、太平洋沿岸に屯田兵村を設置して屯田兵を入植しなければ、ロシア側がいつ上陸するか知れないことなどを政府に陳情した結果だった。<br> | |
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+ | 5ケ年計画に従って1884(明治17)年から江別の追加入植が行われ、翌、翌々年の江別の補充、野幌兵村の220戸入植をはじめ、根室の和田兵村220戸の入植が行われた。1887(明治20)年には室蘭地区の輪西兵村及び札幌の北方の新琴似に兵村を設置して屯田兵を入植させた。<br> | ||
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=== 兵村の増植計画 === | === 兵村の増植計画 === |