「屯田兵制度」を編集中
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=== 最初の屯田兵 === | === 最初の屯田兵 === | ||
[[ファイル:Kotonnitondenhei2.jpg|x250px|right|琴似屯田兵]] | [[ファイル:Kotonnitondenhei2.jpg|x250px|right|琴似屯田兵]] | ||
− | + | 1875(明治8)年5月、青森・宮城・酒田3県と道内の函館周辺にいた士族ら合計198戸、その家族965人が、札幌の西方の琴似兵村へ入植した。翌年には札幌の南方の山鼻兵村へ240戸が入植した。それに加えて琴似兵村の補充屯田兵32名として発寒兵村へ入植し、3名は琴似兵村不足分だった。この年は275戸とその家族1、074人が東北地方の各県と既に伊達邦直に従い入植していた人たちの中から屯田兵を選択した53名だった。<br> | |
− | + | これらの人達は開拓使が招募した第1回の屯田兵で、この480名の屯田兵は琴似兵村が第一中隊となり、山鼻兵村が第二中隊となり、屯田兵第一大隊を編成した。開拓使は1877(明治10)年にも前年通り屯田兵を入植させる予定だったが、九州地方で西郷隆盛が賊軍となって反乱を起したため、その年の2月、屯田兵部隊は直ちに屯田事務総理・黒田清隆の指令によって先ず、1ケ小隊が函館へ派遣された。その理由は本州・青森港から潜入する敵軍の関係者を警戒するとともに物資を敵側に流れることのないように警備することだった。しかし、間もなく函館派遣隊は小樽港に待機を命ぜられ、4月上旬には出征する屯田部隊の本隊と合流して、九州の戦場へ向った。<br> | |
=== 西南戦争に出征 === | === 西南戦争に出征 === | ||
− | + | 西南戦争に出征した屯田兵部隊は、幹部の多くは西郷軍と同じ鹿児島出身であり、屯田兵は10年前の戊辰戦争で賊軍という汚名を受けた本人や子孫が大半であるという奇好な性格を持っていた。従って屯田兵部隊の幹部は親兄弟と戦わなければならず、一方で、屯田兵は親兄弟を殺した敵に対して仇を取る機会が巡り来たと感じていた。<br> | |
− | + | 屯田兵部隊は4月25日、肥後国小島字百貫口(熊本県)という所に停泊し小島に一泊した。27日、別動第二旅団に編入され、八代台より人吉方面の敵を攻撃しつつ進出せよと、総覧本営から命令を受けた。この戦闘中、最も激戦だったのは、8月2日の一瀬川の戦いで、この戦闘を観戦した後続の官軍の将校が、後に「屯田兵の負傷者が屯田の下士、兵卒が多く、将校に負傷者がないのを不審に思っていたが、今日の戦闘を見て、戦っているのは下士・兵卒で、将校ではない」と講評したという話が残っている。<br> | |
− | + | 西南戦争で屯田部隊は7人の戦死と多くの負傷者を出したが、その終焉をまたずに帰途につき、東京でしばらく休んで9月29日、小樽港に帰還して琴似・山鼻両兵村へ帰った。屯田兵が戦闘に参加していた期間は、開拓事業に従事することができなくなったため開拓使は、政府に伺いを出して、扶助期間が3ケ年という規定を1ケ年延長する措置を取った。これにより、屯田兵たちは、かつての賊軍の汚名を返上してはっきり朝廷側になったことを政府が承認したと確信することになった。<br> | |
− | + | 開拓使は、北海道在住の士族移住者らを招募して軍事訓練を行い、東京に集結・待機させた西南戦争の動員計画を参考に、内外で不測の事態が発生した場合を考慮して彼らを屯田予備兵とする「屯田兵予備兵条例」を施行した。しかし、この条例は1881(明治14)年に廃止された。<br> | |