「屯田兵制度」を編集中

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=== 制度案 ===
 
=== 制度案 ===
  
 北海道に[[鎮台]]を設置する案は、1871(明治4)年6月に参議に任じられた当時の[[西郷隆盛]]の発想だった。北海道は他府県と違って人口が僅少なので四鎮台と同じように[[徴兵令]]を施行することができないから、移住者を土着兵として鎮台を設置するという案である。同年8月、部下の[[桐野利秋]]少将を北海道へ派遣したのも、函館の兵力の状態や鎮台設置の予定地、札幌周辺を調査するためだった。帰京した桐野少将は、札幌西部の琴似周辺が有望であると回答した。<br>
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 北海道に鎮台を設置する案は、1871(明治4)年6月に参議に任じられた当時の西郷隆盛の発想だった。北海道は他府県と違って人口が僅少なので四鎮台と同じように徴兵令を施行することができないから、移住者を土着兵として鎮台を設置するという案である。同年8月、部下の桐野利秋少将を北海道へ派遣したのも、函館の兵力の状態や鎮台設置の予定地、札幌周辺を調査するためだった。帰京した桐野少将は、札幌西部の琴似周辺が有望であると回答した。<br>
  
 西郷は鎮台設置案を実施するつもりだったが、1873(明治6)年10月、[[征韓論]]に破れて失脚し下野した。そのころから[[黒田清隆]]は、[[開拓使]]の部下に命じて[[屯田兵]]の具体的な方法を検討させ、[[安田定則]]、[[永山盛弘]]、[[永山武四郎]]、[[時任為基]]らは建議案を次官に提出した。黒田次官は大[[久保利通]]を通じて岩倉左大臣に部下の屯田兵制に関する建議書を提出し、同じ11月に自らが屯田兵の建白書を太政大臣に提出した。政府内に部下が書いた制度実施案に賛成する人たちがいることを察知したからだった。<br>
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 西郷は鎮台設置案を実施するつもりだったが、1873(明治6)年10月、征韓論に破れて失脚し下野した。そのころから黒田清隆は、開拓使の部下に命じて屯田兵の具体的な方法を検討させ、安田定則、永山盛弘、永山武四郎、時任為基らは建議案を次官に提出した。黒田次官は大久保利通を通じて岩倉左大臣に部下の屯田兵制に関する建議書を提出し、同じ11月に自らが屯田兵の建白書を太政大臣に提出した。政府内に部下が書いた制度実施案に賛成する人たちがいることを察知したからだった。<br>
  
  
 
=== 道南の騒乱事件 ===
 
=== 道南の騒乱事件 ===
  
 [[鎮台]]・屯田兵構想が練られた時期に前後する1873(明治6)年6月、北海道では初めて漁民の騒乱事件が発生した。[[開拓使]]の設置時には青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区が、この年から開拓使の管轄下に置かれた際、青森県下では5%だった[[漁税]]が10%に引き上げられたのが発端だった。これを不満とする漁民らは、6月の中旬から福山で22戸、江差では7戸が、税金掛の住宅をはじめ民家を壊し始め、やがて他の村にも波及し始めた。<br>
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 鎮台・屯田兵構想が練られた時期に前後する1873(明治6)年6月、北海道では初めて漁民の騒乱事件が発生した。開拓使の設置時には青森県の管轄下にあった道南の福山・江差地区が、この年から開拓使の管轄下に置かれた際、青森県下では5%だった漁税が10%に引き上げられたのが発端だった。これを不満とする漁民らは、6月の中旬から福山で22戸、江差では7戸が、税金掛の住宅をはじめ民家を壊し始め、やがて他の村にも波及し始めた。<br>
  
 函館支庁の責任者・[[杉浦誠]]は部下と相談して直ちに東京にいる[[黒田清隆]]次官に報告し、青森に在ある鎮台の屯営に対して兵隊の派遣を要請した。6月26日、黒田次官が現場に到着しこの事件を処理した。全国では農民の一揆が相当な数になっていたものの、北海道では初めての事件で、しかも他県から軍隊を派遣したのは初めてだった。<br>
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 函館支庁の責任者・杉浦誠は部下と相談して直ちに東京にいる黒田次官に報告し、青森に在ある鎮台の屯営に対して兵隊の派遣を要請した。6月26日、黒田次官が現場に到着しこの事件を処理した。全国では農民の一揆が相当な数になっていたものの、北海道では初めての事件で、しかも他県から軍隊を派遣したのは初めてだった。<br>
  
 道南の騒乱を契機に、道内では治安対策が必要であり、[[樺太]][[雑居制]]による紛争が道内に波及する可能性もあることから、北海道に[[屯田兵]]を設置する必要があるという意見が政府内にも広がった。これを機に黒田次官は11月、[[屯田兵制度]]の建白書を提出したのだった。<br>
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 道南の騒乱を契機に、道内では治安対策が必要であり、樺太雑居制による紛争が道内に波及する可能性もあることから、北海道に屯田兵を設置する必要があるという意見が政府内にも広がった。これを機に黒田次官は11月、屯田兵制度の建白書を提出したのだった。<br>
  
  
 
=== 制度実施の決裁 ===
 
=== 制度実施の決裁 ===
  
 太政官は、[[黒田清隆]]から出された[[屯田兵]]設置に関する建議を左院、[[陸軍省]]、海軍省、大蔵省に提出し、この意見を文章で回答するよう求めた。各省にはほとんど反対意見がなく、実施上の細部については陸軍省と[[開拓使]]とが詳細に検討する必要があるとの条件が付された。建議書提出から約1ケ月で太政官の決定が下されるのは、この屯田兵制度が時宜にかなった緊急かつ重要な事項であったことを物語っている。<br>
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 太政官は、黒田清隆から出された屯田兵設置に関する建議を左院、陸軍省、海軍省、大蔵省に提出し、この意見を文章で回答するよう求めた。各省にはほとんど反対意見がなく、実施上の細部については陸軍省と開拓使とが詳細に検討する必要があるとの条件が付された。建議書提出から約1ケ月で太政官の決定が下されるのは、この屯田兵制度が時宜にかなった緊急かつ重要な事項であったことを物語っている。<br>
  
 1873(明治6)年12月25日、[[屯田兵制度]]の実施が決裁された。<br>
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 1873(明治6)年12月25日、屯田兵制度の実施が決裁された。<br>
 
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 御達書
 
 御達書
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 決定された制度を実施するに当たっては、人事関係をいかに行うか、実施する基礎的な規則をどのように決めるかが必要だった。特に、[[屯田兵]]には守人としての性格と開拓事業に従事するという二重の性格を持っていたため、難しい問題だった。これに関して1874(明治7)年3月、[[開拓使]]側から開拓使長官が陸軍将官を兼務することによってこの問題を解決したいとの提案が政府に出された。<br>
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 決定された制度を実施するに当たっては、人事関係をいかに行うか、実施する基礎的な規則をどのように決めるかが必要だった。特に、屯田兵には守人としての性格と開拓事業に従事するという二重の性格を持っていたため、難しい問題だった。これに関して1874(明治7)年3月、開拓使側から開拓使長官が陸軍将官を兼務することによってこの問題を解決したいとの提案が政府に出された。<br>
  
 太政官は直ちに関係省と再度協議することになったが、ロシア公使から外務省に、「今般北海道へ6千人の屯田兵を配置し、その中から2千人を樺太へ派遣するとの噂があるが、真否を回答してもらいたい」との質問状が出された。これに対して太政官は、「[[屯田憲兵]]は治安要員であって、年間500人とその家族2千人、それが3ケ年間に北海道へ移住するという計画であって、樺太へ派遣するという計画は全くない」という内容を外務省を通じて回答することとした。<br>
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 太政官は直ちに関係省と再度協議することになったが、ロシア公使から外務省に、「今般北海道へ6千人の屯田兵を配置し、その中から2千人を樺太へ派遣するとの噂があるが、真否を回答してもらいたい」との質問状が出された。これに対して太政官は、「屯田憲兵は治安要員であって、年間500人とその家族2千人、それが3ケ年間に北海道へ移住するという計画であって、樺太へ派遣するという計画は全くない」という内容を外務省を通じて回答することとした。<br>
  
 ロシア側の反応もあって、早急に屯田兵制度を実施して既成事実を作って置く方が有利であるとの判断で、[[陸軍省]]と[[開拓使]]とが一致することになった。この結果、黒田次官を陸軍中将に任じることで、屯田兵の二つの性格を同時に満たし、屯田兵の幹部も軍事訓練と開拓事業を並行して実施することになった。幹部らは、准陸軍少尉などと形式的に陸軍の頭に「淮」を冠することにした。<br>
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 ロシア側の反応もあって、早急に屯田制度を実施して既成事実を作って置く方が有利であるとの判断で、陸軍省と開拓使とが一致することになった。この結果、黒田次官を陸軍中将に任じることで、屯田兵の二つの性格を同時に満たし、屯田兵の幹部も軍事訓練と開拓事業を並行して実施することになった。幹部らは、准陸軍少尉などと形式的に陸軍の頭に「淮」を冠することにした。<br>
  
 
=== 屯田憲兵例則の制定 ===
 
=== 屯田憲兵例則の制定 ===
  
 [[屯田憲兵例則]]は、編制、任務、貸与品、兵器、昇給、休日、罪のことなど8項目について記してある。[[開拓使]]の関係者が案を作り、[[陸軍省]]の関係者と検討して決めたが、何分にも過去に例のないものだったため、作成には約3ケ月を要し、実施中においてさまざまな不備な点も浮上し、その都度追加修正された。開拓使は1873(明治7)年10月30日、以下の内容の例則案を政府に提出した。<br>
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 屯田憲兵例則は、編制、任務、貸与品、兵器、昇給、休日、罪のことなど8項目について記してある。開拓使の関係者が案を作り、陸軍省の関係者と検討して決めたが、何分にも過去に例のないものだったため、作成には約3ケ月を要し、実施中においてさまざまな不備な点も浮上し、その都度追加修正された。開拓使は1873(明治7)年10月30日、以下の内容の例則案を政府に提出した。<br>
  
 
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 [[屯田兵]]の基本法が政府から許可を受けると、屯田兵とその家族の入植準備が進められた。屯田兵の招募について、黒田次官の建白書では、青森・宮城・酒田3県にいる士族で生活に困窮している者を招募すると、書かれており、その士族は[[戊辰戦争]]のときの賊軍を指していた。<br>
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 屯田兵の基本法が政府から許可を受けると、屯田兵とその家族の入植準備が進められた。屯田兵の招募について、黒田次官の建白書では、青森・宮城・酒田3県にいる士族で生活に困窮している者を招募すると、書かれており、その士族は戊辰戦争のときの賊軍を指していた。<br>
  
 1875(明治8)年1月12日、[[開拓使]]は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に[[屯田事務局]]の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。
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 1875(明治8)年1月12日、開拓使は指定の県庁に屯田兵招募の事務的な処理を依頼した。それと同時に屯田事務局の設置と幹部の人選に当たった。東京出張所の中で処理していた屯田兵関係の事務は、札幌本庁内に移された。
 
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== 屯田兵村の形成 ==
 
== 屯田兵村の形成 ==

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