土屋鍋治郎

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目次

[編集] プロフィール

土屋 鍋治郎  (北一已 明治28年5月入地 愛知県出身 兵屋番号62番)

[編集] 出典元

 『屯田』第17号 < 『一已村開拓五十年記念誌』(昭和19年)

[編集] 要旨

  1. 聞き手「日露戦争の話に異常な緊張を覚えた」
  2. 400戸の屯田兵が召集され、30名余りが即日帰郷した
  3. 転戦1年余の間、若妻一人で農業に当たった
  4. 母「うちの嫁は仕事きちがいになった」と感謝
  5. 父も借金返済のために懸命に働いた
  6. 一人息子はソロモン海戦で名誉の戦死

[編集] 証言内容

(注)この文は、訪問記録として記載されている。

  1. 一己屯田兵の元老、土屋鍋治郎さんは、かくしゃくとして今なお、公私ともに多忙であられる。屯田兵懐旧談拝聴の命を受けて昨夜、訪れたが、五十年式典の委員会に出席中とのことで不在。本朝、やっとお仕事の暇をみてご面会いただいたのであった。外は時雨模様の冷えびえとした空ではあるが、暖い番茶をいただいてなかなか尽きない談が、たまたま日露戦争当時の銃後におよぶと、大東亜戦争最中の現在の民心と比較して、私も異常な緊張を覚えて聞き入ったのである。
  2. 当時、四百戸あまりの屯田兵に召集が下ったのであるが、即日帰郷が三〇名ないし三二、三名。約一割といった割合で、銃後はほとんど女、子供ばかりであった。土屋さんは、七〇歳に手の届こうという膝関節の不自由な父と、病弱な母と奥さんと二人の乳飲み児を残して出征されたのであった。
  3. 転戦一年有余、その間、若い奥さんは初めて馬を使った。馬耕、しろかき、植え付け、すべてを女手一人で敢然とやり遂げた。そして六町五反の水田は、みごとに黄金の波をただよわしたのである。収穫時は、さらに忙しかった。現在のように機械力はないのである。稲は一束一束千歯で扱ぐのである。早くて十一時、遅ければ十二時まで、奥さんは夜業をつづけたものだという。
  4. 「帰られたら『ようやってくれた』と感心されるようにやっておこう」。これが出征中の夫、土屋さんに対する奥さんの気持ちだったのである。だから、近所に不幸ができて母が夜とぎに行ったとき「母でさえ寝ないのだから私が寝てはすまない」と、夜っぴて稲を刈って、次の日は足腰が痛くなって、どうにも仕方がなかったこともあった。「とうとうしまいには『家の嫁は仕事気違いになった』といってお母さんが笑いなさった」と奥さんは、当時を思いだしたように微笑された。
  5. 「いや、父でもそうじゃった」と、土屋さんが言われる。そのころ借金して、土屋家では土地を買いもとめておられたのであったが、「借金を留守中に済まさねば、出征しているせがれにすまない」と、お父さんもまた痛いヒザをなでながら、がいせんするまでに、ほとんどその借金を返済していたのであった。とにかくそのころは、現在のように援農も統制も配給もなかった。だれにすがり、何に頼る方法もないのである。それでいて皆、不平をいわず、不満も持たず、ただひたすらに働きぬいたものだという。「機械なしで六町五反の水田を女手一人でというと、まあまあ見るに見られぬ困難、聞くに聞かれぬ苦労じゃ」と土屋さんは、初めていたわるように、そばにすわっておられる奥さんに視線を向けられると、奥さんは何かしらほっと重荷を下ろしたようなお顔で、ふたたび熱い番茶をすすめて下さるのであった。
  6. 一己屯田兵の殊勲者、土屋さんの一子、宗一君は、またソロモンの海に殊勲をたてて大東亜戦の華と散っている。早いもので明日はその一周忌だという。宗一君の霊に心から礼拝を捧げて、土屋さん父子二代から受けた教訓を深く肝に銘じながら門を辞したのである。

 
  つちや・なべじろう 二番通り三丁目入植元屯田兵。愛知県出身。

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