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[[上原轍三郎]](うえはら てつさぶろう) 1883(明治16)年8月25日〜1972(昭和47)年2月27日
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう) 1883(明治16)年8月25日〜1972(昭和47)年2月27日
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日本の農業経済学者で、拓殖学、殖民学、開発政策に関する研究分野で大きな功績を残した。
 
日本の農業経済学者で、拓殖学、殖民学、開発政策に関する研究分野で大きな功績を残した。
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*<span style="color:red">あこがれの札幌農学校</span>
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*広島県南方村(現・広島県北広島町)に生まれた上原轍三郎が北海道に関心を抱いたのは、中学校の英語の教科書に出てきた新渡戸稲造の『武士道』に強くひかれたのがきっかけで、あこがれを抱くようにして札幌農学校に入学した。
:広島県南方村(現・広島県北広島町)に生まれた上原轍三郎が北海道に関心を抱いたのは、中学校の英語の教科書に出てきた新渡戸稲造の『武士道』に強くひかれたのがきっかけで、あこがれを抱くようにして札幌農学校に入学した。
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*<span style="color:red">卒論を道庁が刊行</span>
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*屯田兵研究のバイブルとも呼ばれる『北海道屯田兵制度』は、元々は上原轍三郎の卒業論文だった。卒業の8年前に屯田兵条例は廃止されていたため、卒論のテーマを聞いた学友は「何を今さら」と笑った。それでも上原は、兵村を回って屯田兵の家族らから話を聴き、第七師団などで記録をあさった。著書400字詰め原稿用紙にすると約500枚にもなる論文は、北海道や南樺太の開拓、殖民に頭を痛めていた政府と北海道庁の目に止まり、卒業の2年後北海道庁から刊行された。後進国を力で抑え付ける「殖民学」ではなく、人間を基点に土地と人口の調和を重視する「拓殖学」の視座は、国際的にも評価され、ドイツの農業誌などにも紹介された。
:屯田兵研究のバイブルとも呼ばれる『北海道屯田兵制度』は、元々は上原轍三郎の卒業論文だった。卒業の8年前に屯田兵条例は廃止されていたため、卒論のテーマを聞いた学友は「何を今さら」と笑った。それでも上原は、兵村を回って屯田兵の家族らから話を聴き、第七師団などで記録をあさった。著書400字詰め原稿用紙にすると約500枚にもなる論文は、北海道や南樺太の開拓、殖民に頭を痛めていた政府と北海道庁の目に止まり、卒業の2年後北海道庁から刊行された。後進国を力で抑え付ける「殖民学」ではなく、人間を基点に土地と人口の調和を重視する「拓殖学」の視座は、国際的にも評価され、ドイツの農業誌などにも紹介された。
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*<span style="color:red">北海道開発巡り丁々発止</span>
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*戦後の北海道開発の理論敵意指導者として上原轍三郎が策定に携わった第1期総合開発計画(1952〜1962年)は、雪の結晶の研究で知られる北海道大学教授・中谷宇吉郎から痛烈な批判を浴びせられた。第1次5か年計画が戦後経済の混乱もあって遅々として進まなかったためで、中谷は雑誌に「開発費800億円はドブに捨てるようなもの」と書き立てると、上原は「アメリカ開拓の例にもあるように開発事業の成果は短時日であがるものではない。5年や10年の段階で批判するのは短見であり、むしろ不当だ」と鋭く反論した。
:戦後の北海道開発の理論敵意指導者として上原轍三郎が策定に携わった第1期総合開発計画(1952〜1962年)は、雪の結晶の研究で知られる北海道大学教授・中谷宇吉郎から痛烈な批判を浴びせられた。第1次5か年計画が戦後経済の混乱もあって遅々として進まなかったためで、中谷は雑誌『文藝春秋』(1957年4月号)に「開発費800億円はドブに捨てるようなもの」と書き立てると、上原は「アメリカ開拓の例にもあるように開発事業の成果は短時日であがるものではない。5年や10年の段階で批判するのは短見であり、むしろ不当だ」と鋭く反論した。
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*<span style="color:red">高倉新一郎による人物評</span>
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*高倉新一郎による人物評 「慎重に考えて、計画を立て、大道を開いて、その上で堂々と歩いて行く。先生の姿勢そのものが開発の基本理念だった」(1970年、北海道開発功労賞受賞の祝辞)
:「慎重に考えて、計画を立て、大道を開いて、その上で堂々と歩いて行く。先生の姿勢そのものが開発の基本理念だった」(1970年、北海道開発功労賞受賞の祝辞)
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== 伝記 ==
 
== 伝記 ==
  
*『北海道開発功労賞受賞に輝く人々 昭和45年』(1971年、北海道)
 
 
*『百折不撓物語』 (2005年、「北海学園120年の120人」編集室編、梶田博昭著、地域メディア研究所刊)
 
*『百折不撓物語』 (2005年、「北海学園120年の120人」編集室編、梶田博昭著、地域メディア研究所刊)
*「さっぽろ文庫 第66巻 札幌人名辞典』
 
  
  
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== 関連資料 ==
 
== 関連資料 ==
  
*『北大百年史』  『北大百二十五年史』
 
*『北海学園百年史』  『北海学園大学35年小史』
 
*『北海学園大学新聞』 第10、11合併号、第14、15合併号、第31号
 
  
  

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