能瀬文次郎

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目次

プロフィール

能勢 文次郎 (明治19年6月東和田兵村入地 石川県出身 兵屋番号117番)

出典元

『和田屯田』(1976年・昭和46年 根室市教育委員会)

要旨

  1. 屯田兵志願に両親は賛成してくれた
  2. 来てみてこんなに辛いとは思わなかった
  3. 年齢や身分を偽って志願した者もいた
  4. 家族5人を連れて移住した。家財は80貫まで
  5. 根室に上陸、倉庫で一泊した
  6. 公使に毎日駆り出された
  7. 鉄砲はマルキネ銃
  8. 気候も土地も悪く開墾に苦労
  9. 中隊、大隊の編制について
  10. 新聞社襲撃事件について

証言内容

  1. 特に屯田兵を志ざして来たわけではない。十九才の時で兵隊が好きだったから志願をして来た。当時金沢に第三師団の第六旅団があり、その兵隊ともずいぶん遊んだものだ。また、畑仕事にも興味があった。たまたま父のもとで知人が役場の兵事係をしていて、その人に勧められたことも志願の理由の一つ。両親は屯田兵志願に賛成した。また家族の者も兵役を務めることには賛成であった。なぜなら、徴兵ならば三年間入営して家族と別々に暮さなければならないが、屯田兵なら毎日我家にいて兵役をつとめることが可能であるからだ。手続は両親が全部やってくれた。
  2. 志願の際に、給与のことばかり書いてある本をくれた。務めの内容はさっぱり書いていなかった。三年の扶持で、病気になれば医者も無料でかかれるとか。しかし、いいことばかりとは思ってはいなかったが、来て見てこんなにつらいものだと知った。もっとも開墾は初めてのせいもあるが。
  3. 志願できる年令は二十才から三十才までだった。身体検査だけで読み書きの試験はなかったので、中には読み書きの出来ない者もいた。士族でなければだめだった。中には年令や身分を偽って志願をした者もあったが、戸籍の検査が厳しく失格した者もあった。戸籍は軍隊手帳に記載され、写しが大隊本部にも備えてあった。
  4. 第一中隊の場合は、家族は何人でも良かった。私は両親と兄弟三人、そして私の六人で移住した。布団は七才から十五才までは布が各一枚、それ以上の者はミノの敷が一枚支給された。六才以下の者には支給がなかった。家財道具の持ち込みは八十貫まで許可された。取締人がいて検査をした。
  5. 一隻の舟で全員が来た。越中の「関」で各県がまとまって「和歌の浦丸」に乗船した。鳥取県のうち三戸は江別の方へ廻り、残り三戸は私たちより二十日余り先に和田村に入地をしていたが、主な県は、福井、石川、新潟、山形、秋田、青森の六県だった。六月五日に根室港に上陸したが、二二〇戸の家族を収容する旅館がなかったので、郵船会社の倉庫に一泊した。六月六日午前九時に根室を発ち、歩いて来た。中には歩けない人もあったが、馬も馬車もなかったので、それらの人たちは背負われて来た。中隊長の篠崎大尉が先に和田村に来ていて皆を案内してくれた。立派な道路もついていたし、家も全部建っていた。しかし、森林があるので向うは見えたが、隣りはほとんど見えなかった。家はくじ引きで決めた。
  6. 第一中隊は六ヵ月間毎日の訓練はなかった。開墾に重点を置いていたので公使とかに毎日かりだされたものです。現在、穂香の牧草畑になっているところが郡役所の麻試験畑で「マル本」の番屋から肥料として鰊粕をもらったものだ。事業場の面積は五千坪で、この地区が屯田兵開墾の先がけだろう。また、大きな馬小屋、牛舎も建っていた。とにかく訓練、開墾ともつらかった。
  7. キツネはたくさんいた。熊は、開墾の音や鉄砲の音、人間の臭いなどで姿は見せなかったようだ。ただ、私たちの裏の沢が熊沢というアイヌのあだ名がついていたそうだ。鉄砲は先込のマルキネ銃で、屯田兵村では村田銃は使用しなかった。
  8. 開墾のことは書いてあったが、土地の支給を受けることも目的であった。それに三年の現役が必要というのを三年経てば国に戻れる。三年しんぼうしてお金を貯めて戻って来ようなどと誤解をしていた人も多かったようだ。また、こんな価値のない所だとは思ってもいなかった。もっとも根室と厚岸だけだけれども。室蘭でも悪い土地に移住した屯田兵もあったが、後に皆追給地へ移転をした。こんな気候も土地も悪い所は根室の和田村と、厚岸の太田村だけで、他はすべて米がとれるのだから。
  9. 第一中隊が入地した時は、第二中隊の家は建っていなかった。明治二十年になってから、第二中隊の一二〇戸が建築された。本部に屯田兵とは別に札幌から建築係が来ていた。残りの一〇〇戸を建築し、道路も整備された後にこの建築係は札幌の司令部へ引き上げた。第二中隊として二二〇戸が入地することは和田村に来てから知った。二ケ中隊が根室、二ケ中隊が厚岸の太田村、合わせて四ケ中隊で四大隊が編成された。初めは第二大隊であったが、あとから二ケ大隊が編成されたので順送りで和田村が第四大隊となったものだ。札幌本部の山鼻屯田から、下士官二人、上等兵二人が派遣されて来ていた。
  10. 明治二十四年頃だと思う。新聞社が中隊長の悪口を書いたのではなく、「渡辺もうじゅう」という人が、第二中隊の吉田中隊長の悪口を新聞に書いた。吉田中隊長は鹿児島出身で号令もへただったし、戦術もまずかったのであろう。警備をしていた人だから、将校にでもなれると思って来たのだろうが、「開墾兵、開墾兵」といわれたのを根にもってこの事件を引き起こしたのだろう。


参考

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