為岡利三郎
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プロフィール
- 為岡 利三郎 (南一已 明治28年5月入地 香川県出身 兵屋番号365番)
出典元
『屯田』第17号 < 『一已村開拓五十年記念誌』(昭和19年)
要旨
- 小樽から沖里河(現・深川市)まで
- 毎日おひつを持って大隊本部へ夕食を取りに行った
- 3年目に水田を作ったが、半分は青米だった
- 20戸で班を編制し、班長になった
- 富山県人の家族調査では言葉が通じずに困った
- 最初の4〜5年間マラリヤが流行したが、良い軍医のお陰で死者はなかった
証言内容
- 明治二十八年五月七日小樽着。同地に七日間滞在して十四日に小樽発、同日滝川に泊まりました。翌朝三時ごろ滝川発。徒歩にて沖里河へ着いたのは十一時ごろでありました。沖里河から道という道のない所を丈なす草やフキをかき分けて、今の女学校(現深川東商業高校)の裏に上がりました。
- そのときの深川市街は、戸数わずかに五、六戸にすぎませんでした。それから各戸では、食券とお櫃を持って大隊本部まで夕食を取りに行きました。夕食はご飯のみで、これを柾に盛り、笹の箸で食べました。もちろん、副食物もありませんでした。それから五日聞、毎日お櫃を持って今の教圓寺付近の大隊本部まで、各自がご飯をもらいに行ったものです。当時の食料としては、米はほんのわずかで、小豆、稲キピ、アワ、馬鈴薯を主食とし、演習のときの昼食に、馬鈴薯を待って行く者もあった程でした。
- 演習は八月から始まりましたが、朝は六時ないし七時から、午後は三時ないし四時までで、半年くらいはほとんど日曜もなく毎日でした。したがって、農業に従事する者は家族のみでした。私は、三年目に水田を二反ばかり作って見ましたが、半分は青米で、粘り気のない米ができました。
- 笑い話になりますが、移住当時、困ったことが一つありました。それは、いっしょにきた二十戸が抽選によって、それぞれの兵屋に入ったので部下が散り散りになり、新たに編成された十八戸(二十戸が正しい)の班長を命ぜられましたが、班内に他県の者が入り混じってきたので言葉が分からなかったことです。いちばん困ったのは富山県人で、なかでも砺波五箇山の人のは、まったく分かりませんでした。
- 三回目に、富山県人のある家へ家族調べに行きましたが、あいさつしても分からぬらしく返事もしません。「人員調べにきたが、戸主さんはいないか」と言っても、向こうで私の言葉が分からぬらしい。そこで払は「兵隊さんにきた人おりませんか」と言うと、やっと分かったらしく「ヤー、背戸にいる」と言います。いま考えるとおかしな話ですが、背戸とは便所のことかと思ってしばらく待っていましたが、いくらたってもでてきません。待ち兼ねて呼んで見ましたが返事がない。おかみさんに重ねて聞くと、裏の方を指しました。そこへ、ちょうど戸主が入ってきましたので、いよいよ話が始まりました。母親らしい人がいましたので「お母さんでしょう」と言うと「オレのカーカだ」と言います。そんなはずはないと思いまして「乳を飲まして呉れた人でしょう」と聞きますと「ヤー」と言います。「この人は姉さんですか」と聞きますと「アネマ」と言い、戸主のことを「アンサ」、女の子を「メロ」。こんなわけで結局、戸籍調べができないで帰りました。
- 移住当時は病気も多く、四、五年の間はマラリヤが流行して、これにかからぬ者はほとんどない状態でありました。なお、三年目だったと思います。腸チブスが流行し、丸山の南側に病舎が建てられ、患者の多いときは五十人もありました。幸い鈴木という名軍医殿がおられまして、よく治療され、また指導して下さったので、死亡者は一人もありませんでした。この軍医殿は、患者の腹をなでながら不思議に食べたものを当てるのです。患者が普通のご飯を食べますと、腹をさすりながら「おかゆの素を食べただろう」と言い、スープを作ったついでに肉を食べて知らぬ顔をしていますと「スープの粕を食べたな」といった具合ですから、患者は禁じられているものを食べても隠すことができず、恐れをなしてつい食べませんでした。こんなことが、死亡者を一人も出さなかった原因の一つであったでしょう。
(ためおか・りさぶろう=現四条一二番入植元屯田兵。香川県出身)