今井良三郎
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プロフィール
- 今井 良三郎(明治22年5月入地 福岡県出身 兵屋番号305番)
出典元
- 『室蘭屯田兵』(1973年・昭和48年)<1968年・昭和43年NHK収録の回顧談
要旨
- 黒田、福岡県の出身
- 人に使われるくらいなら百姓に
- 年齢ごまかし戸籍を訂正してもらった
- 絣の反物と梅干し、煙草を持って移住
- 上陸した室蘭はさびしい部落
- 40歳までは現役のようなもの
- 農耕にはまったく不適な土地
- 二人が自殺、恩給運動もひとくさりした
- 屯田兵の制服制帽について
証言内容
- 出身は黒田でございます。福岡県の。私と共に来ました者が佐賀県、それから石川県が少しばかり、それに熊本が少しおりまして(北海道に来ると)みんな寒がりましてね。それが105戸来ました。輪西兵村は一個中隊でございまして、250戸おることになる訳ですが、19年に105戸、これは鳥取方面、それから阿波ですかね、その人たちが来ておりました。南の方が多ございました。
- 私共の方には明治21年に募集に来ました。私はまだやっと小学校でございましたが、帰りにクラブに寄りましてね、募集官が来てさかんに説明しておりました。それを聞きましたところが、いやこれなら何も窮々としてここで学問をしていたところで、どうせ人に使われなけりやならない、それより、いっそのこと百姓になれと、こういうつもりで思い立ちました。ところが、私はひとり息子でございまして、父の晩年の子だったものですから、なかなか許してくれませんでね。色々話した結果ようやく「そういうならば連れて行ってやろう」ということになりました。
- 屯田兵は満17才からでございますが、(志願するときは実際より)2年、丸1年多くしてもらったわけです。戸籍を訂正してもらいました。戸籍があった久留米の町長は昔の門人なものですから。それに添書をくれましたから行って話しまして、そういう風に訂正してもらいました。
- 父がずいぶん厳格な男でしたから「絹布は全部売ってしまえ」と、そして「綿布にしろ」といわれましてね、それで、お国自慢の絣の反物を買いましてね、それをみんな持って来ました。食糧は、梅ぼしに、父が好きであった煙草ぐらいで、あとは何も食料は持ってまいりませんでしたがね。
- 室蘭には明治22年の7月15日の朝着きました。10時頃に上陸すると、そりゃ実にもう、なんといって良いか、室蘭がようやく350か60戸位の本当の部落でございましてね。さびしいなぁと思いました。
- 現役3年で予備が2か年、それから後備役13か年、ちょうど普通微募兵と同じことになりました。以前は、屯田兵は40歳まではどうしても兵役にいなきゃならん、ということで現役のようなものです。衣服、被服をもらいましてね、衛兵勤務なぞに出なきゃならなかったのです。現役のうちは楽なことはないですよ。毎日、1か月間は午前中練兵に出ましてね、そして勤務があり、ほとんど暇はなかったんです。演習に半曰くらい出れば、午後からは開墾するというようなことをやりました。
- 耕地が3千坪、それから迫給与地が7千坪で、早くその耕地を開いてしまった者から順番で、追給与地は自分の欲っする所をもらうということになっとったのです。作物の出来は、いや、もう、とてもその。農耕地じゃないんです。兵だけの所で、(農耕には)何も重きをおいてなかったですな。室蘭が北門の鎖鑰としての要害地であった関係で屯田兵を置いたものと思います。
- みんなとても生活できませんから、そっちこっち土方(どかた)になって行くやつもいれば炭坑に行くやつもある。現役のうちに二人も自殺しました。そういうような状態で輪西は、実にもう何ともいえない所でした。私共も、日清、日露の戦役には応召しまして、そして予備兵役でも勤務に出たから、恩給をもらいたいという運動をひとくさりしたことがある。それができませんで、一時金でもらったんですけどね。
- 現役時代は、昔の兵隊は、イッシュク服(第一種服)イッシュク帽(第一種帽)で観兵式に出ました。イッシュク帽といいますと、皮の丁度、輪っぱみたいな黒い皮に漆(うるし)を塗りました帽子をかぶりましてね。それに巻いた毛を差して、筆みたいな、棒みたいなものを前に差して、それがイッシュク帽になる訳です。イッシュク服(第一種服)といいますとジュ服ですね、つまりラシャ服を着まして、屯田兵はズボンが霜降りでした。内地兵は黒ラシャですがね。それを着まして観兵式か、本部にみんな召集されて行って、それが済むと昼から(開墾に)出なきゃならないのです。