乾咲次郎
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プロフィール
- 乾 咲次郎(明治24年7月入地 兵庫県出身 兵屋番号56番・家族)
出典元
- 『当麻町史』(1975年・昭和50年)<『永山町史』
要旨
入地時の食事の様子について
証言内容
(明治二十四年四月八日)兵庫県庁二階で検査を受けることになり、朝早くから家族四人揃うて行く。九時から戸主の体格検査、私は三番目にすませ、屯田歩兵吉田大尉の前へ、父母と妹を連れて立つ。大尉は母に向って「北海辺へ行けば色を黒くして働かなきゃならんぞ」「ハイ」こんなことで検査も終る。帰りがけにさきの奉公先きの岩田の前を通るので、立ちよって屯田兵の検査を受けたことを如したら、親方は「屯田兵なんて土方みたいなものだ」と軽べつした目つきで私を見る。
翌日の朝、市役所より合格採用の通知があり、屯田歩兵、住移先は上川郡永山村とある。これからは仕事も手につかず、心も落付かないが、毎夜八銭の夜廻り、昼は義父の茂成とセリ摘みやわらび取りに行く。時には鵯越(ひよどりごえ)まで足をのばす。往復三里半、相当の収殖をあげて売る。五月も末になって、六月六日、兵庫港屋旅館集合、七日午前八時より日の出丸乗船との通知がある。草つみも季節が過ぎたので、今度は夜廻りが終ると、朝三時間ばかり寝て、母と妹が働く工場へ出かけ、マッチの軸を並べて三銭ぐらいもうける。こうしてその日が来るのを待っていると、六月三日、通知があって市役所で旅費をもらう。大人は五円、十五歳以下三円、計十八円を受け取って帰る。こんな大金を手にすることは始めてである。米一升高くなって八銭の時代である。この日より仕事を切り上げて荷造り、といっても世帯道具全部で六個、ふとんを残して五個を造る。
五日、父は大阪安治川の弟の家ヘー生の別れに行く。神戸で生れた精一が三ツになって居ったので手を引いてつれて歩いてみやげを買ってやったという。
六日、朝早く荷物を運搬屋に頼んで出す。長屋の人に挨拶をして、午前八時橘通り三十七番地を、名残を惜しみながら出発。途中有馬道の古着屋で白チリメンのヘコ帯を五十銭で買う。腰にまく。うれしくてならぬ。大根だねを一銭で買う。得々として港屋旅館前に行く。十一時ごろであった。ご飯が出たが、足高の本膳で、お菜もよいものがつく。私は父の死後これほどのお膳についたことはない。
さてこの夜限りで本土をはなれるのだというので、宴会を開いたり演説をしたりして夜をふかしていたが、私はまだ十八歳だし、金も無いので欠席して寝につく。
七日、朝十時ごろ、昔千石船が横付けとなった兵庫の港から、はしけで、二千トンの日の出丸に乗りこむ。神戸より乗ったものが船尾の上室に一かたまりになっている。私一家は京都から来た長谷川一家と仲よく一隅に場所を占める。
八日、目がさめて甲板に上ると、紀淡海峡を通過した日の出丸は、かがやく日の出をあびて、紀州沖を走っている。空は晴れているが波次第に高く、ノットのおそいこの船は熊野沖より動揺をはじめ、私は船に酔って船室にこもり、食市もとれぬ。
遠州灘の難所も夢のうちに過ぎて風波収まる。九日には九十九里浜を左にながめて気分よく、十日朝、荻の浜寄港、ここで宮城県人四十余戸の家族と荷物を積みこむ。
十一日、鯨のしお吹く壮観を珍しく見る。
十二日、右方はるかに函館を過ぎ、吉岡の崎を右に曲って松前城を望み、江差をすぎて、十三日午前十一時ごろ小樽泊。午後一時より上陸。さて七日間の船中生活から解放せられて、初めて蝦夷ガ島の土を踏んだのであった。司令部から出張していた係官の指揮で宿につく。夕方呼ばれて行くと一尺五寸四角な箱があり、糸紐がたくさん出ている。くじ引きなのだ。一本を引くと一寸五分ほどの木札があらわれた。五十六番、これが永山における兵誕番号なのだ。夜、五、六人で小樽の町を見物する。電灯はなし、まっ暗で曲折が多く、道は悪く、でこぼこ道で、危険甚だしい。それでも千軒あまりの町をグルグル廻って宿へ帰る。
十四日、朝早く、天幕張りの貨車に乗せられ、札幌・岩見沢、そして空知太の終点で下車して一里ばかり歩き、渡し舟で滝川に入り、なおも歩いて滝川市街に着く。三十戸ばかり、宿屋もあったが、全町家へも分宿。ふとんの不足は司令部より運ばれて来ていたが、なお足りない。
十五日は宿よりにぎり飯をもらって七時ごろ出発、数町行くと、左右に去年はいった滝川屯田の兵屋がある。中には立ち寄って色々きいているものもある。兵村をはなれると、もう無人の境にただ一すじの細道が通じている。熊穴坂と標柱のある小坂を超えて音江法華(今の音江村)に着く。掘立小屋が十数戸。土問に枯草、その上にむしろ。ふとんは昨夜よりも少いが、六里の旅路に疲れてはグッスリ眠る。
十六日もにぎり飯で出発、一時間ほどで国見峠という小高い頂上に立つ。神居古潭では数名の囚人が仕事をしている。看守が一人木のきり株に腰をかけている。昨日、ここで看守が一人、囚人に殺されたなどと、誰がいい出したものか話しながら進む。川中につき出た岩にしりおちつけた一人のアイヌが、上って来るさけを網ですくい上げるところだ。目に見るもの何でも珍しい。まして幽すいな景色、水のせせらぎは天然の音楽だと耳を傾ける。台場ガ原を越えて今の神居にあった集治監出張所に着く。多くの囚人がたくさんの野菜を作っていた。夜はここの物置や空官舎に泊り、十七日六時出発。いよいよ今日が最後、永住の地永山入りの日だ。忠別川を渡し舟で越す。後で来た連中は川下の土橋を渡ったという。ホ通り今の一条二丁目のかどに●印の店が一軒あり、近ずいて見ると空家。ハ丁目から今の境橋に斜めに囚人道路と呼んでいた近道があった。ふきとわらび、雑草の茂みを分け、屡まで露にぬれながら行く。牛朱別川の岸には昼もなおくらい柳の茂りをくぐり、丸木舟(今の境橋のところで、祖末ながら橋があり、現存者の話ではたしかに橋を渡ったという)で対岸永山村に入る。午前九時。道路の右側にりっぱな標柱が建っている。案内の軍曹が一々道筋を教えてくれる。
私は教えられた通り、左側を見て四丁目に来ると「五十六番」の小さい立て札が目にとまる。ここだと目を見張る。兵屋まで十五問、ふき、わらび、それに萩がまざっている雑草のしげみ、六尺余にのびているのは地味の肥えているためであろう。ふみ分ける足にも力がはずむ。兵屋は十七坪半、庭は広く、六畳の板間に一間の炉、北に向って庭伝いの流し、次ぎに障子が立って六畳の問、その奥には四畳半に押入れ,いずれも畳がしいてある。もっともバラック建ではあるが、この新築家屋をもらったうれしさ、神戸で腐った家で弐円の借家を思い出し、ありがたくて、ありがたくて、感謝の思いで全身の血がみなぎる。母も父もさほどに思わぬ様子は不思議である。