鈴見乙次郎
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プロフィール
鈴見 乙次郎 (明治22年2月西和田兵村入地 石川県出身 兵屋番号346番)
出典元
『和田屯田』(1976年・昭和46年 根室市教育委員会)
要旨
証言内容
- 明治二十二年に和田村に入地をしたが、屯田兵志願にはっきりした動機はなかった。たまたま私の兄が北海道で屯田例規が出たのを見ると、お金はくれる、土地は五千坪くれる。家族は五人だけ、食い扶持はくれるというので、この機会に財産を築いておこうと思い、兄に代わって私が志願をして来た。兄は年をとっていたので、つまり兄の犠牲となり現役三年、予備四年の計七年務めた。
- 志願は士族でなければだめだった。一緒に試験を受けた者の中にも二十〜三十人の不適格者がいて失格した。中にはお金を貯めて国へ帰った者もあったろうが、本当に北方警備のためにつくした者もいた。
- 第二中隊は、兵隊一人と家族四人の計五人までだったが、私は大勢で来た。屯田兵家族としては両親と兄、そして兄の家内に私の五人、あとは附籍として自費で来た。
- 第二中隊は九州の福岡県の者も加賀の金石港へ来て、金沢で一緒に乗船した。七月十七日に根室港に上陸し、その夜は旅館に一泊した。七月十八日に根室を発ち和田村まで歩いて来た。
- 第一中隊の隊員は古参兵として扱われていた。つまり、いじめられたことになろう。訓練の内容は第一、第二中隊とも同じであったが第二中隊は現役の六ヵ月間は毎日の訓練にあけくれた。公使はあまりなかったが、エン麦まきや、薪切はずいぶんやらされた。開墾の道具は鍬と鋸だけで、馬はなく、中には個人で買った者もいた。
- 三号道路と二号道路との境に険しい沢がある。その沢で佐々木周平さんが熊穴を見つけた。彼は猟が好きで、キツネか鳥を射つつもりで鉄砲をかついで歩いていたら、たまたま見つけたとのことだった。銃は、元込のマルキネ銃で単発だった。当時は既に村田銃が出来ていたのでしょうが、こちらまで廻ってこなかったようだ。日清戦争の時もマルキネを使った。
- 三号道路とか五号道路が決まっていて、上等兵が家まで案内をしてくれた。木がたくさんあって真っ暗で、ちょうど内地の田舎のお宮の森みたいで、淋しいものだった。家はくじ引きで決めた。