大村元吉
(註 この記事は書きかけです)
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プロフィール
- 大村 元吉(明治19年5月入地 広島県出身 兵屋番号185番)
出典元
- 『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
要旨
証言内容
屯田兵移住当時のことはボーッとしてあmるで夢のようであるが、それからそれへと記憶をたどってみると、なかなかいろいろな感想が胸に浮かぶ。
自分は18歳で野幌に来たが、戸主としての自分らは公務がたくさんあって、なかなか忙しく、開墾などはほとんど家族任せといったような形で、なかなか手を下す閑がない。月3回の演習のほか種々の出役があっって、土工に出て射的場を作ったり、野幌停車場の地盛りをしたり、桑園を開墾したり、なかなか忙しいものであった。また麻畑まで行くのだが、今でこそ立派な道路があるけれども、その当時は、トドマツの大森林で、よく熊が出た。とても一人では行かれぬので、いつも五六人宛てかたまって鑵を叩きながら細道伝いに往復したものだ。
宅地内の大樹を切り倒すこともなかなかの大仕事であった。ある日、隣家の牧浦敬太郎と一緒に伐採作業に従事中、その下敷きになって、自分は5週間の治療を要する大怪我をして北辰病院に入院するし、敬太郎は6ケ月目にとうとう死んでしまった。こんな悲惨事はほかにもたくさんある。
そのころ、樺戸や市来知の集治監から囚徒が脱走して来て江別を脅かしたものだ。あるときなどは、三人の脱走囚が江別の寺を襲い、金品を強奪していったとか、護送途中、汽車の進行の鈍いのを幸い、列車より飛び降り逃亡したというような物騒なことが時々あった。その都度、非常召集を受け、歩哨として四つ角に立ったり、巡邏して警戒し、いわゆる徒歩憲兵の職務を行ったのである。
軍律が厳しかったのも意想外であった。土曜日ごとには、針一本に至るまで給与された物品の全部検査を受けた。農具などの破損した場合には、いちいち届け出て、それから修繕にやる。お昼などもきっぱり十二時の食事喇叭の鳴らぬうちは
たとえ三分、五分前でも、どんなに腹がへろうと食べることが出来ぬ。
陸軍始や招魂祭大演習などには札幌に出たが、冬の行軍には閉口した。永山将軍が外国においでになるとき、告別の閲兵分列式があったが、式場には雪が胸くらいまであるので、全員つまごで踏み固めたけれども、それでも分列式が出来ず、閲兵だけで終わった。何一つとしてなつかしの種にならぬものはない。