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目次 |
[編集] プロフィール
- 山畑 弁次郎(明治32年7月入地 埼玉県出身 兵屋番号71番)
[編集] 出典元
- 『士別市史』(1969年・昭和44年)
- 昭和26年6月に開かれた「開拓当時をしのぶ」座談会の発言から抜粋。
[編集] 要旨
- 荷物の黒布で所属先が分かった
- 和寒からはアイヌの丸木船で入地した
- 門柱が並んでいるのを見て安心した
- 途中エゾマツの大森林があった
- 羽織袴で出迎えてくれた
- 着いてから兵屋の抽選をした
- クルミだと思ったらヤチダモだった
- 父親が水田を試みたが青米ばかり。10年かかった
- 道庁の技師を呼び潅漑溝を設計してもらった
- 東旭川から米作りの指導者が来た
[編集] 証言内容
- (士別と剣淵との振り分け)荷物を出す時分に黒い布を付けたんですが、それが第五中隊だということは聞いていました。それで士別だということが分かったんです。
- (北海道へ着いて)蘭留から和寒まで建設列車で来て、和寒で降りてから船のあるビバガラウシまで皆歩いて、ビバガラウシから女子供や体の弱い者はアイヌの丸木船や箱船の小さいようなのに乗りました。看護手が一人付いて、子供がいるものですから、お菓子や何かをたくさん持って乗り込み、観月橋の所に上陸しました。今の剣淵川です。とても船は通れませんが、元は流木などがたくさんあって水の流れが悪く、水の量もたくさんあったから、丸木船が十分通れたわけです。我々先に来た者は観月橋の所、当時は波止場と言ってましたが、あそこまで迎えに行ってそれぞれの家に入りました。
- 道のりが士別まで約五里ですが、剣淵の兵村を通るとき、門柱がずうっと並んでおりました。私らは7月13日に移住しましたから、7月1、2日に入った人たちが門柱を立てて宅地の道をこしらえてありました。ああこんな具合に門柱も立ち、家も出来ているなら安心だと思いながら歩いてきました。
- それから剣淵原野を越えて演武坂まで来ますと、あそこは当時実にうっそうたる森林で、直径三尺か四尺くらいの手塩松、今はエゾマツと言っておりますが、これが密集して生えており、この松に糸ゴケが下がっており、まことに人跡まれなる森林であると考えました。
- 道路は立派に開削して、できておりました。それからこちらへ来ると沢がありまして、そこに屯田兵屋の柾を割っている小屋があって、ここで沢の水を飲んだりして、大曲に着きました。大曲を出ましてから大通りが開削してあったので、ずうっと見えるんです。今の一丁目にアーチが出来ていました。これは大内さん、高島さん、吉方さん清光さんら先に来ていた人たちが作ったものです。そこまで来ると大内さんが羽織袴でちゃんと迎えておりました。
- 一丁目の所まで来ると、隊の幹部がおりまして、抽選をしてその抽選券によって兵屋の割り当てをしたのです。私の所は幸い番外地から四軒目ですから非常に便利でした。
- 入ったけれど土地が低い所で、湿地でした。直径二尺くらいのヤチダモがたくさん生えておりました。親父がびっくりしてしまって、北海道へ行けばクルミの木がたくさんあるということを聞いていたが、ヤチダモの木がクルミに似ているので、俺の所は素晴らしいクルミがあるというので、非常に喜んだところが、ある人が来てそれはヤチダモだと言われ大笑いをしたことがあります。
- (初めての水田は)私の所です。うちのところの空き地が低い所で小川がありましたので、その水を利用して親父が作ってみたんです。その植えた種籾は早生をやりました。東旭川から苗を取り寄せて十坪ほどやってみたんです。ところが穫れないんですな。その年秋穫れたのが青米一升ほどでした。その後だんだん種を土地にならしていったんです。それから六戸の角田さんという人がおられましたが、角田さんの前が谷地でしたから、親父が二給地へ行くのにしょっちゅう通って、角田さんのおじいいさんと話して苗を半分ほど分けてあげて、あそこも作ったのです。あそこでもやっぱり青米しか穫れなかったのです。なかなか五年も六年では当たり前の米にはならず、十年くらい経ってようやく食べられるようなものになったんです。
- 明治33年に初めてやったんです。それでいくらか穫れると分かったので、道庁から技師を呼んで設計してもらい、兵隊が皆出て潅漑溝を作ったのです。 おかしいことは、私役場へ出た当時、弁当を持って行くと、伊藤君(後の伊藤仙五郎町長)が笑うのです。山畑の弁当は青いなあって、青米ですからね。
- 明治35年に潅漑溝が出来てから指導者として東旭川のアシノフヘイというおじいさんが来て、指導してくれました。そのおじいさん、前に私の所で苗を取り寄せたことがあるものだから、うちに来て泊まっておって指導しました。