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2013年11月14日 (木) 09:44時点における最新版
目次 |
[編集] プロフィール
- 梨沢 環(明治32年7月入地 宮城県出身 兵屋番号56番)
[編集] 出典元
- 『士別市史』(1969年・昭和44年)
- 昭和26年6月に開かれた「開拓当時をしのぶ」座談会の発言から抜粋。
[編集] 要旨
- 体格、常識を検査、北海道はとんでもないところと思われていた
- ヒザまで抜かる湿地だった
- 水田は馬糧用の藁を取るためだった
[編集] 証言内容
- 郷里の方で徴兵検査と同じような体格検査をして、それから常識から何から一応検査したね。最終決定があるうと、合格です。(集結は)それぞれの人で違うが、私らの場合、青森です。もとは北海道といえばとんでもない所のように言ったものだが、僕らはそんな気持ちはなかったけど。(士別とか剣淵とかの振り分けをどこでやったかは)分からないなあ。青森から小樽までは、ご飯食べたり、眠ったりです。
- 僕らの方は一帯湿地で、ヒザまでぬかるんですから、水田ぐらいにしかできなかった。うっそうと茂った密林で、直径五尺とか六尺のものがあって、それを切り倒したって、ぬかって畑にならんのですよ。その当時は、僕らの所が一番めぐまれてなかったんでないかい。
- 当時、水田は送希望しないんですよ。畑の方が安全なんだな。水田ならたいていは藁を取るということですからな。藁を取る目的の人が多かったんですよ。藁は、この上川中部では馬糧にするのに作った人が多かったんですよ。