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2013年8月17日 (土) 11:00時点における最新版

目次

[編集] プロフィール =

飯沼 宇吉 (東秩父 明治29年5月入地 岐阜県出身 兵屋番号37番)

[編集] 出典元

 『秩父別町史』(1964年・昭和39年)

[編集] 要旨

  1. 親戚が大反対、住職が説得してくれた
  2. 銃剣術に苦労し努力実った
  3. 種イモもらいに北竜へ
  4. 演習で見かけた飛脚
  5. 中茶屋の由来

[編集] 証言内容

  1. 私の村からは四名参っております。二十八年十二月に今の大垣市役所で身体検査、四名とも合格、二十九年一月に採用指令を受けたのです。ところが親戚が大反対、しかし、またお寺の住職さんをはじめ二、三の理解激励してくれる人もあって四月九日に国を出ました。二里余りの道を前記坊さんを先頭に村の人が大垣停車場まで見送ってくれました。十二日に越前の敦賀港から日の出丸に乗船したのです。
  2. 兵屋に入ると、薪はあつめてあり水桶は充され日用具もすでに運び入れてあって古兵の方々には感謝の言葉もなかったです。当時私は十八歳、身長五尺一寸という貧弱な男。二十四、五歳になる人と一緒に訓練を受けるのは並たいていではなかったです。銃剣術など誰れに向っても一度も勝ったことなく実に残念でした。が屯田解隊の頃は優秀者二十人の中に入ることが出来ましたから、まあさきの無念さが努力させたもとですね。
  3. 二十九年の五月でしたか「芋種子をやるから取りにゆけ」というので北竜市街までゆきました。十五、六貫のものを多くの人は背負いましたが私たち何人かは天秤で担って出かけました。(私どもの内地では背負うということはしません)しかし何しろ年若な小さい男のこと、笹を分け倒し水の上を伝って来るのですから、皆にはおくれるし終りには二町歩いては休み、一町行っては休みというあんばいで誠に大変でした。
  4. 三十七年八月四日に動員下令六日に出発しました。家族はただ門口まで見送ってくれただけ、全村の戸主がみんな深川駅まで歩いたのです。一巳の大隊へ衛兵に行ったり、演習に行ったりする時逓送さんによく逢いましたね。昔の飛脚ですね。絆纏を着て襟には局名が入っていた様です。短い天秤棒の先に荷物をつけ、かついで走ってくるのです。道をよけない者はぶっかって転んでも文句がいえない定めなのです。後には馬になりましたがね。
  5. 一巳と秩父との中間のあたりを今でも中茶屋と呼んでいますね。あそこには茶屋が二軒あったのです。明治三十年だったと思うが、天長節の拝賀式に行った一中隊附の高橋特務曹長が、ここで凍死してしまった。「こんな事ではいかん、ここらに人家がないからこんなことになるのだ」というので中隊からのおこえがかりで二軒の茶店が出来た。一中隊からは北村、二中隊からは長縄の両氏が(屯田兵ではない)やることになったが、

「中茶屋」といふ呼び名の由来はこうなのです。

 

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