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2013年8月16日 (金) 11:34時点における最新版

目次

[編集] プロフィール

村上 清孝(明治29年5月入地 鳥取県出身 兵屋番号75番)
(「屯田兵名簿」では村上清松)


[編集] 出典元

『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)

[編集] 要旨

志願の動機について


[編集] 証言内容

 志願の動機と云ふことにつきまして、古い記憶を辿ってお話したいと思ひます.常時は日清戦争の薦最中でございまして、全國津々浦々に至るまで、兵役をもって國家に御奉公したいといふ気分でありました。私はまだ常時適齢にいたってゐないのでそれを残念に思ってをったのでありますが、幸ひにして、屯田兵志願といふことが役場の方から御勧誘がございまして、なほそれに北海道の未開地を拓いて,北の賓庫とするのだと云ふこと、それに、生産業も興こして行くのだと云ふので、こちらに来る気になった。これが主な動機であったと思ひます。私個人と致しましては私は御承知の通り福井県の出身でございますが、福井県は古い時代より養蚕か大変発達致しまして、當時孫爺さんに當る人と桑の葉を摘みに參りました處が、孫爺さんが四方山の話のうちに「自分の家はお前も畑ってゐる通り、お前の弟を近く分家させなければならぬ。分家に際しては資産分けをしなければならない。自分としては、この儘そっくり相続人に當るお前に譲りたいと希望してゐるのであるが……」と云ふやうな非常に意味深長なお話でございました。當時私は十六歳であったと思ひますすが、若い時代でございまして、孫爺さんの意味深長な、その気持をしみじみと聞かされまして何んとかして、孫爺さんの希望を達して上げたいと考へました。その當時丁度、屯田兵の募集がございまして、色々なお話を承はって、孫爺さんへの孝行の一端を盡し、又日清戦争のあの勇士達の堂々たる出征の姿を見る時に、適齢を侍ってゐる時ではないと云ふような気分も起りまして、若し屯田兵を志願して幸に、採用され、北海道に移住して、未開地を拓くことが出来たならば、國に對する御奉公の一端ともなり、又北方の未開地を北の寶庫とすることか出来たならば、孫爺さんの希望をも達することが出来ると、このやうな動機で志願したやうな訳でございます。


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