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目次 |
[編集] プロフィール
- 木村 才次郎(明治32年7月入地 山縣県出身 兵屋番号38番)
[編集] 出典元
- 『士別屯田覚え書』(2007年・平成19年)
- 筆者・河野民雄が昭和39年6月5日〜41年3月14日の間に数次にわたって木村才次郎から聴取した。(一部は座談会の発言から抜粋)
[編集] 要旨
- 最初の3日間は食べ物がなかった
- 給与地の分配について
- 言葉通じず共通語を習った。文字読めない者もいた
- 厳しかった教練と検閲
- 粗悪だった官給米、抗議すると良くなった
- 現役解除後も続いた訓練
- 5名が下士になった
- 米作りの始まりについて
- 軍医が往診、富山の置き薬屋も来た
- 故郷の便りは1か月以上経って着いた
[編集] 証言内容
- 士別へ入ることは山形出発時から知っており、兵屋も指定され山形で鍵をもらって来た。来た年は連日の雨で、水害のため扶助米が運べず、米倉も開けてくれなかったので3日間ほど食わない日が続いた。
- 給与地の分配は、遠藤曹長がやってくれた。2給地は10戸ずつで籤引きで分けました。3給地は早く拓いた者にいいとこ与えたんですよ。
- 屯田兵100名中、60人くらいは文字が読めず、兵屋の番号や銃の番号すら算用数字で分からない人がいた。いろんな国から集まったので言葉が通じず、まるで外国にでも来たみたいで不自由であった。そこで、文字と言葉と測量技術を覚えるため、夜に事業場で2年ほど勉強した。文字で言うとかな文字を覚えたら甲、乙、丙の三段階評定で、乙をくれるといったあんばいで、2年くらいで手紙を書けるようになった。言葉では共通語を覚えるため、ゴハンはメシと言え、人に向かってはキミと言えなどと習った。
- 規則では訓練は日曜日は休みであったが、中隊の成績競争のためほとんど、休日返上であった。兵隊の訓練は朝5時から夜は6時頃まで日曜を除き連日やった。やらないのは器械体操だけで、教練はすべてやった。各自の兵屋には軍服2着、背嚢、銃などを保管してあるので、班長が軍服や銃の手入れを検査し、これをきちんとやらなければ絞られた。高官が士別に来ると官給品を家の前に並べ検閲を受けた。士別は水が良かったので高官は皆士別に泊まり、その度に検査を受けた。
- 官給の米は規則では2等米が支給されることになっていたらしいが、実際には3等米か等外米のような悪いものが給与されるので、最初は我慢していたが抗議すると良くなった。
- 明治37年現役解除後も幹部は2年くらい残務整理に残り、訓練は継続された。
- 屯田兵のうち下士になったのは、専門学校出身者や、内地で兵役の経験のある者が任命され、日露戦争前は山畑弁次郎、宇井熊太郎、松田繁次、近藤勝之助、菊地平三郎らがなった。
- 水田を始めるに当たって中隊から禁止されるようなことはなかった。灌漑溝が出来ても稲を作るものは5~6戸しかなかった。早くから大掛かりに米を作ったのは神社下の10番の木村さんであった。自分が米を作り始めたのは開道50周年の頃で、木村さんから米作りを教えてもらった。
- 病気のときは、軍医が往診してくれました。来た年に富山の置き薬屋が来ました。お産は近藤さんや高橋さんの婆さんがやりました。軍医も婦人科の方もやりました。
- 故郷の便りが内地から届くまで1か月以上もかかったね。下士官が持ってきてくれました。