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目次 |
[編集] プロフィール
- 北出 長一(明治29年5月入地 石川県出身 兵屋番号55番)
[編集] 出典元
- 『屯田』第25号(1999年・平成11年)<北海道開拓功労者の声録音(1967年・昭和42年)
[編集] 要旨
- 5、6反歩しかなかった故郷の水田
- 1寸足りなかった身長検査でも合格
- 全戸挙げての見送り、「金沢丸」で北海道へ
- 小樽から空知太までは汽車、石狩川は渡船で
- 納内はオサナンケップと呼んでいた
- 「屯田兵の戸主さん」と呼ばれ、毎日教練
- 開墾の毎日、年寄りや女から愚痴も聞かれた
- 効率が上がった窓鍬、10年目には稲作も
- 日露戦争に出征、10人余りが戦死
[編集] 証言内容
- 私は、明治十二年二月十六日石川県能美郡中海村字荒木田に生まれました。その故郷は今の小松市から五キロ程東にあって、平野の続く水田稲作の平和な農村でした。そこで小学校に入学して四年で卒業しました。その頃は四年生でしたから。祖先から受けついだ土地でしたので、附近の農家も私達も五、六反歩の耕作をしている人が多く、多い人でも一町歩位の水田を作っていました。この様に小面積を作っていたので生活は楽ではなく農家の暇な時には、附近の山から出る石材を船に積んで小松市まで運んで賃稼ぎをして家計の助けにしていた。
- この様な生活ではいくら努力しても伸びる事が出来ないから、何とかしたいと考えていた時に屯田兵募集の話を聞きました。屯田兵になって北海道に行けば五町歩の土地が貰えると言う事はとても嬉しい事でしたので、父や祖父に相談しました処、遠い処位なんでもない、志願したらよかろうと言うことになり喜んで早速役場に行き志願の手続きをしました。それは明治二十八年三月で私は十七歳でした。この年の七月頃だったと思いますが志願者の検査が小松町の役場で行れましたが、先ず家族の人数を聞かれました、家族の中に働き手が何人居るかに依り適当かどうかを調べるのでした。私の家族は六人でした。それから身体検査がありましたが、私は身長が一寸程たりないと検査官は首をかしげていましたが、「身長はまだ伸びるだろうから、まあよかろう合格だ」と言われました。検査場には十数人の志願者が来ていましたが中海村では私の外に北野福松、西出三次郎とその兄と四人が合格し屯田兵心得を渡されました。合格して北海道に行く事になった事を聞いた村の人達は「若いものが遠い北海道へよく行く気になったものだ。偉い奴だ」と、驚いたり別れを借しんだりして呉れたものです。
- 翌年三月頃出発が決まって荷物を送る事になったが一戸に六個まで一個は九貫までよいと言われ準備にかかりました。その時支給されたものは、支度料が一戸当り五円、荷物運搬料二円六十銭、旅費(伏木港まで)一円三十銭でした。明治二十九年四月十六日住みなれた家を後に北海道に渡る事になりましたが、村から四戸が出発するので村は全戸あげて村界まで見送って励ましたり、涙ながらの別れを惜しんで呉れました。その頃汽車がなかったので乗船地の伏木港まで歩いて行きました。その日は金沢の町に泊まり二日目細呂木、三日目高岡町、四日目は町の名を忘れたがそこに一泊して、五日目に漸く乗船地、伏木の町に到着しました。歩いて五日の老人や女子供を連れた道中は苦労なものでした。伏木港に二泊して四月二十三日朝、伏木港から金沢丸に乗船して一路北海道に向かいました。
- 小樽についたのは翌日のお昼頃だったか航海中に入居地の籤引が行われて私は納内の五十五番地に決まったのでした。小樽に二日滞在して目的地納内に向かいましたが、当時は小樽から滝川の空知太まで鉄道が敷設されていましたので列車に乗って空知太まで来ました。途中樹木が生繁っている林の中を通ったのを覚えています。人家も処々にある程度で今では想像も出来ません。空知太から江部乙須馬内まで歩き石狩川を渡船で渡り深川村メムの須馬内道路を通り八号線に出て、同夜は深川の澄心寺に泊りました。
- 翌四月二十八日、目的地納内に向かって歩いたのですが、老人や女子供連れであり道も名ばかりの道なので大変難儀でした。道は砂利等敷いていない排水溝もない一本道でしたから苦労だったのは当然でしょう。当時は納内と言わずオサナンケップと呼んでいましたが、オサナンケップ中隊本部の前に着いたのはお昼頃でした。中隊本部は今の橋本自転車店の処(現、開拓記念公園)にありました。中隊長以下幹部が出迎えて呉れて、お前達は遠路御苦労であった、入る家は道路の両側に立札が出ているから、それを探して行けと言い渡され、私は当時八十一歳の祖父と共に六人の家族をつれて笹の中を刈り分けた細い道を探し乍ら歩きました。漸く北通三区に吾家を見つけて故郷を出てから十一日に草履を脱ぐ事が出来ました。
- 家の裏にはまだ雪が残っていて大きな木が覆いかぶさる様に繁って家の中も昼でも暗い位な有様で、このような処をどうして拓くのかと思った。農道具や鍋釜の様なものは官給品として給与され、お米は扶助米として食糧米が三ケ年間配給になり家族には塩菜料として、大中小に分けて一人前の人は大、次が中、小は子供と云うように区別されて、塩菜料一人一日、大は一日一銭五厘、中は一日一銭、小は一日二厘が支給されました。尚兵屋一棟も官給になりました。漸く落付いて二・三日すると共同事業をするからと通知があって道路の排水溝を掘ったり道の悪い処には木を割って敷いたりどうにか通行が出来るようになりました。何日かたって中隊長の訓示がありました。「お前達は屯田兵として北門の警備と北海道開拓の責任を負っている。毎日練兵に出なければならないから真面目にやって貰いたい」と一言い渡されました。その後軍服武器が手渡され屯田兵としての毎日が始まり、屯田兵の戸主さんと呼ばれる様になりました。その呼名は今も続いています。屯田兵は日曜日を除いて毎日練兵場に出て教練を受け雨や雪の日は雨覆練兵場で学科や銃剣術を習ったのです。
- 家族のものは朝早くから夜は遅くまで、大木を伐り倒して開墾の鍬を振い私共も日曜や練兵時間外には一生懸命開墾を致しました。開墾をするためには、先ず大木を伐り倒して焼かなければ拓く事が出来ないので、木を伐る斧の音、木の倒れる音、そして倒した木を焼く煙が毎日のように続いて居りました。今の美田を見れば想像も出来ない事です。右を見ても左を見ても見えるものは只、木立ばかり、隣の家等勿論見えず、そして仰げば青空が見えるだけ、このような生活が毎日続いた為に、老人や女達から愚痴が出て故郷へ帰ると言うもの等があって大変でありました。私の一家は幸にも八十一歳の祖父も気丈な人で愚痴等一言も一言わなかった事は幸いでした。
- 開墾をするのに初め官給の唐鍬を使用しましたが翌年窓鍬を求めた処、非常に能率が上がった事を覚えています。四・五年目だったと思いますが馬が入りまして、既墾地はプラオで耕す人もできました。二年目の秋にリンゴの苗木が支給されまして植付けましたが、何年か後に赤い実がなり家族を喜ばせました。開いた畑には麦、馬鈴薯、大小豆、栗、稲黍等を作り食糧の自給等にしたり販売したり致しましたが、稲黍は餅にすると大変おいしくて米がいらないと喜んだのでした。十年位後の事と思いますが、隣の四班の人達と共同で幌内川から水路を作って初めて水田を作りました。三反位で青米で一俵位よりとれなかったけれども二、三年たつと青米もだんだん減って二俵位とれるようになりました。粟は反一俵、小豆は一番多くとれて初めは、一、二俵であったけれど後には五俵もとれた事があります。裸麦もよく出来て麦ご飯を食べたり稲黍ごはんを食べたり致しました。
- 屯田兵の現役は八年でありましたが、七年目に屯田兵が廃止になりました。私達は後備役に編入され屯田兵は解除になりました。ここで内地に帰る人、他に職業を転職する人、市街地区に出て商人になる人がでました。私は、お上から戴いた土地を守る決心で農業を続けて居りました。現役解除の折には五町歩の土地の六割位が開墾されていた様に思います。その内に日露戦争が起り私も明治三十七年八月一日、召集令状を受けて歩兵第二十五連隊に編入され月寒で二ケ月訓練を受けた後、征途につき朝鮮元山に上陸、激戦には五回程参加致しました。その後休戦となり凱旋、勲八等を戴きました。この戦争に納内から百五十名位で、十人余りの戦死者がありました。折角開拓も緒についた処で戦死されました事はまことに残念でありました。