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2013年6月24日 (月) 17:30時点における版
目次 |
プロフィール
- 湯谷 元蔵(明治19年5月入地 鳥取県出身 兵屋番号337番)
出典元
- 『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
要旨
証言内容
- 自分は鳥取の士族に生まれ、明治十八年県令の告諭に発奮して屯田兵を志願し、採用せられて同志の人達と渡道し、野幌屯田兵として軍務に従ひ、開墾にも従事したが、軍務も開墾作業も全く不馴れの為将校のお小言頂戴の仕通しながらも、現役、予備、後備と大した過もなく今日に及んだ。
- 最初給与せられた土地は四千坪で、次いで六千坪五千坪と給与を受けたが、それが普通の農家の如く一枚の畑でなく一里二里と遠方に飛び離れて居り、おまけに泥炭地であったり、排水が無かったりしてゐた為、開墾するのに随分と時間労力に無駄が多かった。家族の少ない兵員などは、宅地でさへ二年も三年もかかったような仕末で、こんな事が原因して次第に土地も愛する心も薄らぎ、他に転出する者さえ生じた次第であろう。
- 移住後三年まで扶助米に有りついていた為、土地を開く苦労はあっても、先ず食ふ心配は無かったが、扶持米が下らなくなってからは、まるで赤子が無理に乳ばなれをさせられたようなもので、全く心細いものであった。何しろ作ったものを売るといっても、販路は無し、僅かに札幌の山本某に小麦を売る位のもので、値も相当安かった。兎に角、芋、蕎麦等を作り食料に充て、本務の外副業として夏は養蚕、冬は麻扱きなどをして辛くも露命をつないでゐた。
- だから自由な身になってからは出稼ぎするものがだんだんと増えてきて、江別に出て角割りするもの、或は鉄道工夫となって多少でも賃銭を得て生活の足し前にするといふ有様であった。中には密かにご法度の水田を厚別方面に作って幹部に発見せられ、再三注意しても聞かなかった為、遂に家族諸共営倉に入れられたといふ笑えない事実さへあった。
- 兎にも角にもあらゆる辛苦艱難して踏みとどまったものが五十余戸、それに後より兵村の土地を買って入ってきた移民と合せて百五十余戸の人達が一生懸命働いたが、いくら働いても貯蓄も出来ず、土地も全く荒廃に帰し、不毛になりかけて来たので、これではならぬと気がつき、同志と振興会を組織して区有地を開き、其純益にて兵村希望者に牛を一頭宛購うはせたのが野幌兵村畜牛の始である。このお影で土地も肥え、生計も段々豊かになって来た。今日模範畜産農村と称せられるようになったのである。みなこの振興会の賜と言わなければならぬ。五十年の歳月は夢と過ぎ去った。今来し方を顧みれば転た懐旧の情に堪へぬ。