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太田 紋助(おおた もんすけ) 1846(弘化3)年1月16日〜1892(明治25)年4月 日

厚岸(北海道釧路支庁管内厚岸郡厚岸町)出身の開明的なアイヌ指導者で、1890(明治23)年の南北太田兵村の開設に全面協力した。

全道37の屯田兵村のうち、兵村名に個人の名が冠されたのは永山(屯田事務局長永山武四郎に由来)、和田(第4大隊長・和田早苗に由来)、太田の3ヶ所だけで、北海道庁・屯田兵本部が、太田の功績を高く評価した表れ。


目次

[編集] 経歴

  • 1846(弘化3)年 1月16日、厚岸において、厚岸場所の番人で南部(青森県)大畑出身の父・中西紋太郎と厚岸奔波のアイヌの母・シラリコトムとの間に出生。
  • 1854(安政元)年 父の死後、国泰寺の寺男となる。
  • 1869(明治2)年 厚岸地方を支配することとなった佐賀藩より、開墾係に雇用される。
  • 1871(明治4)年 少年時代はサンケクルと呼ばれていたが、戸籍法の制定により母親の日本姓・太田に改め、名も紋助とした。
  • 1877(明治10)年 このころ開拓使の牧畜取扱雇、駅逓馬看守人を勤める。
  • 1878(明治11)年 ツクシコエに昆布場を新開。
  • 1879(明治12)年 釧路地方で最初の小学校・朝㬢小学校(現・厚岸小学校)の開校に当たり、3円を寄付し、功労を讃えて開拓使から木盃を授与される。
  • 1882(明治15)年 開拓使廃止に伴い牧畜取扱の職を解かれる。
  • 1883(明治16)年 松葉町総代に就任、農商務省通信員、海草改良常置議員などの公職も務める。
  • 1884(明治17)年 別寒辺牛に開設された共同開墾地でアイヌ民族に農業技術を指導するとともに、利益金を基に生活資金の造成事業を推進。
  • 1890(明治23)年 屯田兵村設置計画に協力し、原野の土地調査に当たり、自身の開墾地も提供した。
  • 1892(明治25)年 函館出張中に急死。享年47歳。


[編集] 業績

太田紋助が選定に協力した厚岸は、地形・地勢・地味や家屋材の確保などの面から「殖民上も兵略上も北海道東部の咽喉実に枢要の地」(栃内元吉)と評され、兵村の誘致・開設に尽力した太田に対し北海道庁は「太田」の名を兵村に冠することで、その功労に報いた。
太田紋助は、開拓行政に協力するだけでなく、アイヌ民族の発展のためにも私財を投げ打って貢献し、特に、根室・釧路・北見地方のアイヌ救済のために、特別予算による保護施設の設置に成功した。別寒辺牛の共同開墾地への参加を促すとともに、共同経営の利益を積み立てて生活改善資金を造成するなど、先進的な取り組みにも心血を注いだ。農業を指導するため、1883(明治17)年には駒場農学校(後に東大農学部)で裸麦や小麦の栽培法を学んだ。


[編集] 受賞歴

[編集] 人物評、エピソード

幼くして父を失った太田紋助は、利発で周囲からも誠実な性格が愛されていたことから、国泰寺の住職・香山聞禅師の庇護を受け、8年間寺男を務めながら教養と学問を身に付けた。農業に熱心だった住職の影響から佐賀藩の開拓事業に従事し、わずか2年間で約5町歩(ヘクタール)を開墾したと藩に報告する一方で、自分自身のものと見られる土地開墾にも精を出していたことが『太田紋助日誌』に記されている。


[編集] 伝記

[編集] 言葉

[編集] 著作

太田紋助日誌』 (下記関連資料の項参照)


[編集] 関連資料

  • 犀川会資料』(第8号に太田紋助日誌・1932-1934年、1982年に復刻・北海道出版企画センター)

[編集] 史跡、博物館

  • 国泰寺跡 国指定史跡(昭和48年10月)厚岸町湾月1丁目 箱館奉行の願い出により1804(文化元)年に設置が決定された蝦夷三官寺のひとつ。

[編集] 外部リンク

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