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* 1906(明治39)年9 月1 日 兵庫県三原郡(淡路島)出身の屯田兵・[[赤坂幸太]]の6男として北海道[[西永山兵村]](現・旭川市)に出生 | * 1906(明治39)年9 月1 日 兵庫県三原郡(淡路島)出身の屯田兵・[[赤坂幸太]]の6男として北海道[[西永山兵村]](現・旭川市)に出生 | ||
* 1913(大正2)年 永山村の小学校入学 | * 1913(大正2)年 永山村の小学校入学 | ||
− | * | + | * 1918(大正7)年 父・[[赤坂幸太]]の弟で士族・板東家に入って家系を継いでいた西永山屯田兵[[板東平吉]]の養子となる |
− | * | + | * 1920(大正9)年 庁立旭川中学に入学。全学年を通じて優等生。特待生となり、在学中に学友会誌にエッセイ「秋を訪ねて」などを発表 |
− | * | + | * 1925(大正14)年 山形高等学校文科入学。8月旭川聯隊一年志願兵となるが、入営は延期される |
* 1929(昭和4)年 山形高等学校卒業、京都帝国大学文学部哲学科入学 | * 1929(昭和4)年 山形高等学校卒業、京都帝国大学文学部哲学科入学 | ||
* 1930(昭和5)年 京都帝国大学中退、東北帝国大学法文学部国文科入学 | * 1930(昭和5)年 京都帝国大学中退、東北帝国大学法文学部国文科入学 | ||
− | * | + | * 1933(昭和8)年 東北帝国大学卒業、3月庁立函館中学嘱託教師となる。8月庁立室蘭中学教諭心得、12月同教諭となる |
− | * | + | * 1934(昭和9)年 室蘭中学校友会新聞「室中」を創刊、「室中校友会誌」に「文学入門」を発表、北海道教育同友会会報「北友」を編集発行 |
+ | * 1936(昭和11)年 「兵村」第一稿を書き上げる | ||
+ | * 1937(昭和12)年 「兵村」第二稿が『改造』の懸賞論文で選外佳作第三席となる | ||
+ | * 1938(昭和13)年 「兵村」第四稿を『中央公論』に、「室蘭」を『文藝春秋』に投稿。『文芸首都』の同人となる。山本ゆき子と結婚、離婚 | ||
+ | * 1939(昭和14)年 評論「農民文学の一考察」を『文芸首都』1月号に発表。同2月号に発表した『[[兵村]]』(第五稿)が室生犀星、窪川鶴次郎らの賞賛を受け、前期の芥川賞候補となる | ||
+ | * 1940(昭和15)年 短編「老松古杉」(後に「七十女夫」と改題)を『月刊文章』に発表、随筆「海霧の町」を『文芸首都』6月号に発表。中野一子と結婚 | ||
* 1941(昭和18)年 『[[兵屋記]]」が歴史文学賞候補となる | * 1941(昭和18)年 『[[兵屋記]]」が歴史文学賞候補となる | ||
* 1946(昭和21)年10月15日 腸結核のため東京都三鷹市下連雀で病死 | * 1946(昭和21)年10月15日 腸結核のため東京都三鷹市下連雀で病死 |
2014年2月26日 (水) 10:34時点における版
板東 三百 (ばんどう みつお) 1906(明治39)年9月1日〜 1946(昭和21)年10月15日
西永山屯田兵二世の作家で、芥川賞候補となった処女作『兵村』など屯田兵に関わる作品を数多く発表したことから「屯田兵作家」と呼ばれた。
目次 |
経歴
- 1906(明治39)年9 月1 日 兵庫県三原郡(淡路島)出身の屯田兵・赤坂幸太の6男として北海道西永山兵村(現・旭川市)に出生
- 1913(大正2)年 永山村の小学校入学
- 1918(大正7)年 父・赤坂幸太の弟で士族・板東家に入って家系を継いでいた西永山屯田兵板東平吉の養子となる
- 1920(大正9)年 庁立旭川中学に入学。全学年を通じて優等生。特待生となり、在学中に学友会誌にエッセイ「秋を訪ねて」などを発表
- 1925(大正14)年 山形高等学校文科入学。8月旭川聯隊一年志願兵となるが、入営は延期される
- 1929(昭和4)年 山形高等学校卒業、京都帝国大学文学部哲学科入学
- 1930(昭和5)年 京都帝国大学中退、東北帝国大学法文学部国文科入学
- 1933(昭和8)年 東北帝国大学卒業、3月庁立函館中学嘱託教師となる。8月庁立室蘭中学教諭心得、12月同教諭となる
- 1934(昭和9)年 室蘭中学校友会新聞「室中」を創刊、「室中校友会誌」に「文学入門」を発表、北海道教育同友会会報「北友」を編集発行
- 1936(昭和11)年 「兵村」第一稿を書き上げる
- 1937(昭和12)年 「兵村」第二稿が『改造』の懸賞論文で選外佳作第三席となる
- 1938(昭和13)年 「兵村」第四稿を『中央公論』に、「室蘭」を『文藝春秋』に投稿。『文芸首都』の同人となる。山本ゆき子と結婚、離婚
- 1939(昭和14)年 評論「農民文学の一考察」を『文芸首都』1月号に発表。同2月号に発表した『兵村』(第五稿)が室生犀星、窪川鶴次郎らの賞賛を受け、前期の芥川賞候補となる
- 1940(昭和15)年 短編「老松古杉」(後に「七十女夫」と改題)を『月刊文章』に発表、随筆「海霧の町」を『文芸首都』6月号に発表。中野一子と結婚
- 1941(昭和18)年 『兵屋記」が歴史文学賞候補となる
- 1946(昭和21)年10月15日 腸結核のため東京都三鷹市下連雀で病死
業績
室蘭中学校の教師時代に同人誌に発表した『兵村』は、永山屯田兵村を舞台に屯田兵の生涯を描いた作品で、第9回芥川賞(昭和14年年上期)候補となった。『兵屋記』が第1回歴史文学賞(昭和18年)候補となるなど、屯田兵の生活や心情を丹念に描いた作品を数多くの残した。戦時下の昭和19年に日本出版文化協会から刊行された『屯田兵物語 熊のすんでた村』は、銃後を守る少国民のための助成図書としてシリーズ化された「少国民文藝選」の第10選に加えられた。
人物評、エピソード
- 『屯田兵物語 熊のすんでた村』は自身の少年時代の体験がベースとなっており、笹川治男の挿絵は板東の記憶に基づいて描かれた。執筆に当たっては、元屯田歩兵第四大隊長・栃内元吉や元屯田兵からの聴き取り取材を重ねたと伝えられている。
著作
- 『兵村』
- 『兵屋記』
- 『兵村小筆』
- 『海霧』
- 『隣みち』
- 『雪みち』
- 『屯田兵物語 熊のすんでた村』
関連資料
伝記
史跡、博物館
- 旭川市永山2条8丁目に「板東三百生誕の地」の記念標がある。