「目良謙吉」の版間の差分

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(証言内容)
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== 証言内容 ==
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== 証言内容(紀行) ==
  
七月一日午後四時、五丁目の学校に集合の命あり「本日より六日昼食まで炊出しを給する毎日定刻までに受取りに来るよう」にと。夕食と大根漬九本塩約五百匁を受取る。<br>
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 明治二十三年十二月北海道屯田兵(歩騎砲工兵)徴募の旨和歌山県知事より西牟婁郡長へ、郡長より各村長に対して通知あり、水害罹民にして満十七歳以上三十歳までの男子で体格堅固、家族三人以五人までの者は検査の上採用とのこと。私の下秋津村は作二十二年八月、大洪水で村内一円、山林田畑、家屋敷等大半流され、ほとんど回復の見込みなく、村長である父目良謙吉は、率先村民に出願を勧める。それで多くの出願者はあったが、検査日が近付くにつれて取り消すもの多く、当日受験したものはたった五、六人。目良家も古くより熊野別当家として由緒ある豪家であったのだが、大被害、世襲の山林から田畑・家・土蔵まで流出、小さい方の土蔵と撃剣道場との二棟が残っただけで、屯田兵を志願したいのだが、兄謙蔵は医学校在学中であり、殊に体が虚弱で資格なく、次男の私は年齢不足で断念せざるを得なかった。<br>
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 二十四年四月二十四日、雨。この日、私の撃剣道場を下秋津村の徴兵検査場として屯田兵志願者の体格検査や学力検査、家族検査が行なわれる。<br>
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 午前九時開始。
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 検査官 陸軍屯田歩兵大尉 吉田勇蔵
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 陸軍一等軍医  里見義一郎
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 陸軍一等書記  黒田正金
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 陸軍属    小島泰次郎
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 和歌山県属官  松井智信
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 同付属員  大橋李一
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 同牟婁郡長  秋山徳隣
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 同郡書記兵事課長 宇井八十一郎
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 その他郡の兵事係や父の下秋津村長ら八名<br>
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 受検者は六名。それに検査場が私の道場であり、表札に「獣医目良謙蔵」とあるのを検査官が見て「北海道は畜産帝国である。牛馬に心碍ある者、ことに獣医はすこぶる有望だ。渡道の気がないか」と間われ、父は家の事情、大いに希望していながら資格に欠けることを詳しく述べる。吉田大尉、里見軍医等大いに同情して直ちに志願者として検査、私を甲種合格、兄を乙種合格として二人とも採用決定、喜んで願書や戸籍謄本等を急造して提出、さきの六名のうち五名まで合格、一名(森山五郎吉)のみ不合格となったが、これは屯田兵付鍛冶織として、兄謙蔵の付籍となって渡道を許可せられる。<br>
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 五月十六日より二十七日まで山林家財、武具まで一切を市売りする。京阪地方から広島・名古屋等より集る。これにて借財を整理し、残金一千四百千一円二十四銭也を携帯して渡道することとなる。十九日には兄も学校を中退して帰宅する。三十一日には田辺闘鶏神社で郡中有志者により武運長久の祈願祭あり、この日手伝を得て荷造り全部終る。二戸分で九十七個。荷物は元来一戸につきハ個までと限定されていたが、検査官の許可を得て賃金を支払ってその二倍まではよいことになっていた。<br>
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 六月十日、晴天。午前五時神官中田水穂氏来って最後の神式をあげ、八時、いよいよ自宅の大門を出発。祖父の弥右衛門堪亮はもとの格式に従って駕籠にうち乗り、かごかきの治平・三六・浅吉・勘吉の四人が前後二人ずつでかつぎ、お供のものは武具を持つ。ご本人は格式による衣装を整え、大小帯刀で、さて田辺町秋津口より出て、大浜郡役所に至り、秋山郡長に会見してお別れの挨拶をし、かねて大浜御台場跡に設けられていた送別会場に着く。秋津三ヵ村では各戸より一人、または二、三人出席、近郷近村各官公吏、学校職員まで三千人の見送り、目良家より清酒四斗樽で三樽、干魚に竹の皮包みの赤飯等を出す。見送り人も、各思い思いの重箱を持ち寄り、前古未聞の一大野宴場となる。<br>
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 父は別に郡役所・裁判所・警察署・収税署・町役場、その他に挨拶に廻り、十一時野宴場に入り、一同に挨拶。<br>
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 午後四時野宴を閉じ、それより郡長以下の発起で目良謙吾及び屯田兵に対する送別式が郡役所の会議室で聞かれ、終わって汽船会社楼上で別宴に招かれる。この日午後十時、汽船遠賀丸に釆りこみ、田辺湾を出航、翌十一日朝五時、和歌山市青崎に上陸、県庁より指定の藤源旅館に入る。<br>
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 十一日県庁で旅費と県下屯田兵五十戸の兵員や家族、付籍の名簿を受け、松本知事の訓示あり、移住者取締代表として仲砲兵軍曹と私の二人が命ぜられる。<br>
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 十二日、秋山郡長に従って県庁に行き、荷物の件を打ち合わす。荷物の少い者や全く無いものもあるので、多いものはその人の名義で処理し、神戸へ送る。目良家の大荷物もこうした便宜で七十個を他人名義にして大いに助かる。<br>
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 十四日午前十時青崎出版、海上平穏、神戸上陸。直ちに湊川神社に参拝、記念撮影、午後金沢丸に乗りこんで、いよいよ北海道に向け出帆する。金沢丸は浅野汽船会社に属して二千トン級、当時わが国第二の巨船といわれる。和歌山県よりの五十戸のほか、徳島県(第一航は日出丸)四十六戸も同船する。午後出帆。<br>
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 十五日、曇、天候不良。瀬戸内海の正道島(小豆島?)に投錨。岡山県よりの屯田兵は乗船できず、十六日、朝、雨であったが、波少し納り、三番港より備前・備中・美作よりの屯田兵乗船する。<br>
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 十七日、晴。豊後灘を進航。午前十一時ごろ波荒く動揺甚だしい。午後四時ごろ日向沖より飫肥(おび)岬通過すれば、波少しく穏かとなる。大隅沖を通って、翌十八日午前四時、鹿児島入港。鹿児島県屯田兵乗船。これは一風変った風格で動作活発、しかし言葉は早口でしかも判らぬ。大てい士族出らしく思われる。この日夕刻出帆、八時海門沖通過。<br>
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 十九日、夜八時、北風起って浪高く、人々苦しむ。<br>
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 二十日、二十一日、二十三日。<br>
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 二十三日、佐渡島を北に見る。徳島県出身芝山牛太郎の妻、男子分娩。船長喜んで餅と赤飯の馳走あり。船客よりも祝儀の金を贈る。ところが同県人の柴田升太郎老母は老衰で死亡。香典す。<br>
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 これも徳島県人の話。住吉林吉なるものが徒然のあまり、同志数名と船中の広場でお国自慢の芝居をやって、仲間をよろこばす。ところがこれが検査官吉田大尉の耳に入って呼び付けられ、大いに訓戒。これは後日入地後、この件でまた処分を受ける。<br>
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 また鹿児島県出身青年(伊集院?)と高知県出身和田某とけんかを始め、和田は顔をかまれて大負傷するの珍事も起る。<br>
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 二十五日、曇。午前十時ごろより波やや静まる。小樽港入港。手宮駅付近の浜に上陸。<br>
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 港町とはいえ人家少く、汽車は町中をガランガラン大鈴をならして運行しているのを異様にに見る。浜通りのカネ平旅館に入る。<br>
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 これよりさき、手宮に上陸すると係官が来て、抽せん、各人の入地先きを決定する。歩・騎・砲・工、各兵種により兵村が分けられる。私は永山兵村裏通四丁目第百四十五番地、兄謙蔵は同八丁目百八十一番地と決定する。<br>
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 なおここに特筆すべきことが起る。翌二十六日、札幌の永山司令官代理としで副官が来樽、祖父弥右衛門をたずね「ご老体ご苦労であった。汽車から降りたところに、二頭ぴき馬車を一台さし廻してあるから、戸主謙吉は付添として、ともにこれに乗るがよい。途中三ヵ所で宿泊して、永山兵村に至るであろう」との特命を伝えられる。祖父は大いに喜んで深く感謝する。これは祖父は旧格あり、県知事、または郡長より内申のあったのであろうと察せられたが、ただ祖母にはその恩命が無いのは気の毒であった。<br>
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 二十六日とニ十七日の二回に分けて沼貝兵村行きが出発。<br>
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 二十八日午前五時、手宮駅集合、五時三十分乗車。無蓋車。小樽市街の真中を通る。例の大鈴をならしながら。線路の左右にむしろを垂れた家が時々見える。札幌市街を右に見る。沼貝兵村中央の駅に下車。これより一同滝川に向け出発。ただし私と祖父はお上より差しまわしの二頭引き馬車に乗る。滝川の高畑旅館に投宿。<br>
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 二十九日晴天。音江法華の駅逓に入る。<br>
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 三十日、晴。暑さ烈し。馬車から見る神居古潭を無二の絶景と賞するにつけても徒歩の一行、殊に父母や祖母の身が案じられる。午後一時、忠別太着、一同は集治監出張所跡に宿ったが、私と祖父は疋田新助氏の経営する駅逓に入る。<br>
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 七月一日、雨。最後のコース永山に向う。大橋二ヵ所を越えて忠別市街に入る。人家三、四戸商家なし。六十間橋を渡ると、「永山村」と大書した標柱がある。兵村一番地だ。赤えり軍服で刀を下げた軍人が「貴様の行く所は...」と兵屋の位置を丁寧に教えてくれる。表三丁目より曲り、百四十五番地に入ることができる。時に正午。午後一時には祖母も妹かの等もつく。父母に兄一同も昨日から足痛で馬車を許され無事入地したという。<br>
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 この日四時、五丁目の学校に集合の命あり、上官より「本日ただ今より来る六日昼食まで炊出しを給する。毎日定刻までに受取りに来るように」と。そして次の給与品を渡される。<br>
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 家屋 土台付柾葺平屋 一陳十七坪七合、坊主 畳十畳半、建具戸十三枚 入口二 裏口 二雨戸二 便所戸一 半戸三 計一三、押入三、障子 十二枚、夜具四人分、上布敷布八枚、平鍬大小二個、唐鍬大小二個、鎌 二丁、まさかり 大一個、のこぎり 大中二個、やすり 二個、山刀 一個、と石 二個、鍋 大中小三個、荷桶 一荷、手桶 大小二個、庖丁・ナガナタ 各一個 以上<br>
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 本日の炊出し食は給与の鍋に入れて持って帰る。なお大根漬九本、塩約五合、味そ約五百匁を受ける。私は馬車迫の注意で、入地の途中で正油一樽と黒砂糖・味そ・だし魚等を買入れて馬車に載せて来ていた。庭に生えているふき、わらびなどで、居ながら味そ汁を作る。<br>
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 馬車追は官命とはいえ、二十八日より四日間、よく親切につくしてくれる。札幌の人とか、管波某。三十四、五歳。一泊、記念として小刀を贈って別れる。<br>
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 翌二日、晴。樋口という軍人が采て、道路の草刈り、兵屋前後の掃除、家まで九尺幅の道路造り、第一給与地四千五百坪(一町五段歩)は家の前から開くことなどを命ぜられる。<br>
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 七月六日で炊出し給与を終り、白米一俵(三斗九升七合五勺)給与される。<br>
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 七日、門前までの草刈りと九尺幅の道造りを終え、検査を受ける。<br>
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 八日、入隊式。午前八時大隊本部前集合。荘厳裡に入隊を宜し、誓文に捺印、本日より屯田歩兵二等卒を甲付けられる。<br>
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 屯田歩兵第三大隊長屯田歩兵中佐和田正苗 同大隊副官屯田歩兵大尉安藤(東)貞一郎 第一中隊長屯田歩兵大尉吉田勇蔵 同第一小隊長中尉向井友貴 第二小隊長見習士官川上親興 第三小隊長少尉上杉某、第四小隊長少尉藤本専作 中隊付下士官池田軍曹 同遠藤雅市軍曹 曹同古川軍曹 同矢田量平曹長<br>
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 中隊ごとに十一班に分け、一班毎に給与班長心得を命ぜられる。すなわち、
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第一中隊第一小隊第一給与班長岸田鉄蔵 第二班井実喜蔵 第三班斎藤市蔵 第四班玉井直之丞 第二小隊第五給与班長元木儀一
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郎 第六班木甚七 第七班近藤権吉 第八班増田秀一 第三小隊第九給与班長草地権六 第十班鎌田市郎 第十一班佐竹儀蔵
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 第十二斑松野万寿 第四小隊第十三給与班長南勝三郎 第十四班目良謙蔵 第十五班南部隆 第十六班信原松太郎
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 中隊幹部候補生は以h十六名のほか、第一小隊吉本孝徳篠原峰吉梅井竹太郎新井直平第二小隊小山修吉渡辺徳三郎
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樋口亀太郎 井上栄吉、目良謙吉 第三小隊友田鴨煕 橋本俊五郎 杉浦勇 吉水野克巳 第四小隊松井延太郎 小川栄一郎 永峰利三郎 高見清太郎
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以上の幹部候補生は、練兵後毎日学校で特別教育を受ける。<br>
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 さて現役三年、予備役四年、すなわち明治三十一年三月末日で後備役となる。<br>
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2013年8月15日 (木) 18:41時点における版

目次

プロフィール

目黒 謙吉(明治24年7月入地 兵庫県出身 兵屋番号145番)


出典元

『永山町史』(1962年・昭和37年)

要旨


証言内容(紀行)

 明治二十三年十二月北海道屯田兵(歩騎砲工兵)徴募の旨和歌山県知事より西牟婁郡長へ、郡長より各村長に対して通知あり、水害罹民にして満十七歳以上三十歳までの男子で体格堅固、家族三人以五人までの者は検査の上採用とのこと。私の下秋津村は作二十二年八月、大洪水で村内一円、山林田畑、家屋敷等大半流され、ほとんど回復の見込みなく、村長である父目良謙吉は、率先村民に出願を勧める。それで多くの出願者はあったが、検査日が近付くにつれて取り消すもの多く、当日受験したものはたった五、六人。目良家も古くより熊野別当家として由緒ある豪家であったのだが、大被害、世襲の山林から田畑・家・土蔵まで流出、小さい方の土蔵と撃剣道場との二棟が残っただけで、屯田兵を志願したいのだが、兄謙蔵は医学校在学中であり、殊に体が虚弱で資格なく、次男の私は年齢不足で断念せざるを得なかった。

 二十四年四月二十四日、雨。この日、私の撃剣道場を下秋津村の徴兵検査場として屯田兵志願者の体格検査や学力検査、家族検査が行なわれる。
   午前九時開始。  検査官 陸軍屯田歩兵大尉 吉田勇蔵  陸軍一等軍医  里見義一郎  陸軍一等書記  黒田正金  陸軍属    小島泰次郎  和歌山県属官  松井智信  同付属員  大橋李一  同牟婁郡長  秋山徳隣  同郡書記兵事課長 宇井八十一郎  その他郡の兵事係や父の下秋津村長ら八名

 受検者は六名。それに検査場が私の道場であり、表札に「獣医目良謙蔵」とあるのを検査官が見て「北海道は畜産帝国である。牛馬に心碍ある者、ことに獣医はすこぶる有望だ。渡道の気がないか」と間われ、父は家の事情、大いに希望していながら資格に欠けることを詳しく述べる。吉田大尉、里見軍医等大いに同情して直ちに志願者として検査、私を甲種合格、兄を乙種合格として二人とも採用決定、喜んで願書や戸籍謄本等を急造して提出、さきの六名のうち五名まで合格、一名(森山五郎吉)のみ不合格となったが、これは屯田兵付鍛冶織として、兄謙蔵の付籍となって渡道を許可せられる。

 五月十六日より二十七日まで山林家財、武具まで一切を市売りする。京阪地方から広島・名古屋等より集る。これにて借財を整理し、残金一千四百千一円二十四銭也を携帯して渡道することとなる。十九日には兄も学校を中退して帰宅する。三十一日には田辺闘鶏神社で郡中有志者により武運長久の祈願祭あり、この日手伝を得て荷造り全部終る。二戸分で九十七個。荷物は元来一戸につきハ個までと限定されていたが、検査官の許可を得て賃金を支払ってその二倍まではよいことになっていた。

 六月十日、晴天。午前五時神官中田水穂氏来って最後の神式をあげ、八時、いよいよ自宅の大門を出発。祖父の弥右衛門堪亮はもとの格式に従って駕籠にうち乗り、かごかきの治平・三六・浅吉・勘吉の四人が前後二人ずつでかつぎ、お供のものは武具を持つ。ご本人は格式による衣装を整え、大小帯刀で、さて田辺町秋津口より出て、大浜郡役所に至り、秋山郡長に会見してお別れの挨拶をし、かねて大浜御台場跡に設けられていた送別会場に着く。秋津三ヵ村では各戸より一人、または二、三人出席、近郷近村各官公吏、学校職員まで三千人の見送り、目良家より清酒四斗樽で三樽、干魚に竹の皮包みの赤飯等を出す。見送り人も、各思い思いの重箱を持ち寄り、前古未聞の一大野宴場となる。

 父は別に郡役所・裁判所・警察署・収税署・町役場、その他に挨拶に廻り、十一時野宴場に入り、一同に挨拶。

 午後四時野宴を閉じ、それより郡長以下の発起で目良謙吾及び屯田兵に対する送別式が郡役所の会議室で聞かれ、終わって汽船会社楼上で別宴に招かれる。この日午後十時、汽船遠賀丸に釆りこみ、田辺湾を出航、翌十一日朝五時、和歌山市青崎に上陸、県庁より指定の藤源旅館に入る。

 十一日県庁で旅費と県下屯田兵五十戸の兵員や家族、付籍の名簿を受け、松本知事の訓示あり、移住者取締代表として仲砲兵軍曹と私の二人が命ぜられる。

 十二日、秋山郡長に従って県庁に行き、荷物の件を打ち合わす。荷物の少い者や全く無いものもあるので、多いものはその人の名義で処理し、神戸へ送る。目良家の大荷物もこうした便宜で七十個を他人名義にして大いに助かる。

 十四日午前十時青崎出版、海上平穏、神戸上陸。直ちに湊川神社に参拝、記念撮影、午後金沢丸に乗りこんで、いよいよ北海道に向け出帆する。金沢丸は浅野汽船会社に属して二千トン級、当時わが国第二の巨船といわれる。和歌山県よりの五十戸のほか、徳島県(第一航は日出丸)四十六戸も同船する。午後出帆。

 十五日、曇、天候不良。瀬戸内海の正道島(小豆島?)に投錨。岡山県よりの屯田兵は乗船できず、十六日、朝、雨であったが、波少し納り、三番港より備前・備中・美作よりの屯田兵乗船する。

 十七日、晴。豊後灘を進航。午前十一時ごろ波荒く動揺甚だしい。午後四時ごろ日向沖より飫肥(おび)岬通過すれば、波少しく穏かとなる。大隅沖を通って、翌十八日午前四時、鹿児島入港。鹿児島県屯田兵乗船。これは一風変った風格で動作活発、しかし言葉は早口でしかも判らぬ。大てい士族出らしく思われる。この日夕刻出帆、八時海門沖通過。

 十九日、夜八時、北風起って浪高く、人々苦しむ。

 二十日、二十一日、二十三日。

 二十三日、佐渡島を北に見る。徳島県出身芝山牛太郎の妻、男子分娩。船長喜んで餅と赤飯の馳走あり。船客よりも祝儀の金を贈る。ところが同県人の柴田升太郎老母は老衰で死亡。香典す。

 これも徳島県人の話。住吉林吉なるものが徒然のあまり、同志数名と船中の広場でお国自慢の芝居をやって、仲間をよろこばす。ところがこれが検査官吉田大尉の耳に入って呼び付けられ、大いに訓戒。これは後日入地後、この件でまた処分を受ける。

 また鹿児島県出身青年(伊集院?)と高知県出身和田某とけんかを始め、和田は顔をかまれて大負傷するの珍事も起る。

 二十五日、曇。午前十時ごろより波やや静まる。小樽港入港。手宮駅付近の浜に上陸。

 港町とはいえ人家少く、汽車は町中をガランガラン大鈴をならして運行しているのを異様にに見る。浜通りのカネ平旅館に入る。

 これよりさき、手宮に上陸すると係官が来て、抽せん、各人の入地先きを決定する。歩・騎・砲・工、各兵種により兵村が分けられる。私は永山兵村裏通四丁目第百四十五番地、兄謙蔵は同八丁目百八十一番地と決定する。

 なおここに特筆すべきことが起る。翌二十六日、札幌の永山司令官代理としで副官が来樽、祖父弥右衛門をたずね「ご老体ご苦労であった。汽車から降りたところに、二頭ぴき馬車を一台さし廻してあるから、戸主謙吉は付添として、ともにこれに乗るがよい。途中三ヵ所で宿泊して、永山兵村に至るであろう」との特命を伝えられる。祖父は大いに喜んで深く感謝する。これは祖父は旧格あり、県知事、または郡長より内申のあったのであろうと察せられたが、ただ祖母にはその恩命が無いのは気の毒であった。

 二十六日とニ十七日の二回に分けて沼貝兵村行きが出発。

 二十八日午前五時、手宮駅集合、五時三十分乗車。無蓋車。小樽市街の真中を通る。例の大鈴をならしながら。線路の左右にむしろを垂れた家が時々見える。札幌市街を右に見る。沼貝兵村中央の駅に下車。これより一同滝川に向け出発。ただし私と祖父はお上より差しまわしの二頭引き馬車に乗る。滝川の高畑旅館に投宿。

 二十九日晴天。音江法華の駅逓に入る。

 三十日、晴。暑さ烈し。馬車から見る神居古潭を無二の絶景と賞するにつけても徒歩の一行、殊に父母や祖母の身が案じられる。午後一時、忠別太着、一同は集治監出張所跡に宿ったが、私と祖父は疋田新助氏の経営する駅逓に入る。

 七月一日、雨。最後のコース永山に向う。大橋二ヵ所を越えて忠別市街に入る。人家三、四戸商家なし。六十間橋を渡ると、「永山村」と大書した標柱がある。兵村一番地だ。赤えり軍服で刀を下げた軍人が「貴様の行く所は...」と兵屋の位置を丁寧に教えてくれる。表三丁目より曲り、百四十五番地に入ることができる。時に正午。午後一時には祖母も妹かの等もつく。父母に兄一同も昨日から足痛で馬車を許され無事入地したという。

 この日四時、五丁目の学校に集合の命あり、上官より「本日ただ今より来る六日昼食まで炊出しを給する。毎日定刻までに受取りに来るように」と。そして次の給与品を渡される。

 家屋 土台付柾葺平屋 一陳十七坪七合、坊主 畳十畳半、建具戸十三枚 入口二 裏口 二雨戸二 便所戸一 半戸三 計一三、押入三、障子 十二枚、夜具四人分、上布敷布八枚、平鍬大小二個、唐鍬大小二個、鎌 二丁、まさかり 大一個、のこぎり 大中二個、やすり 二個、山刀 一個、と石 二個、鍋 大中小三個、荷桶 一荷、手桶 大小二個、庖丁・ナガナタ 各一個 以上

 本日の炊出し食は給与の鍋に入れて持って帰る。なお大根漬九本、塩約五合、味そ約五百匁を受ける。私は馬車迫の注意で、入地の途中で正油一樽と黒砂糖・味そ・だし魚等を買入れて馬車に載せて来ていた。庭に生えているふき、わらびなどで、居ながら味そ汁を作る。

 馬車追は官命とはいえ、二十八日より四日間、よく親切につくしてくれる。札幌の人とか、管波某。三十四、五歳。一泊、記念として小刀を贈って別れる。

 翌二日、晴。樋口という軍人が采て、道路の草刈り、兵屋前後の掃除、家まで九尺幅の道路造り、第一給与地四千五百坪(一町五段歩)は家の前から開くことなどを命ぜられる。

 七月六日で炊出し給与を終り、白米一俵(三斗九升七合五勺)給与される。

 七日、門前までの草刈りと九尺幅の道造りを終え、検査を受ける。

 八日、入隊式。午前八時大隊本部前集合。荘厳裡に入隊を宜し、誓文に捺印、本日より屯田歩兵二等卒を甲付けられる。

 屯田歩兵第三大隊長屯田歩兵中佐和田正苗 同大隊副官屯田歩兵大尉安藤(東)貞一郎 第一中隊長屯田歩兵大尉吉田勇蔵 同第一小隊長中尉向井友貴 第二小隊長見習士官川上親興 第三小隊長少尉上杉某、第四小隊長少尉藤本専作 中隊付下士官池田軍曹 同遠藤雅市軍曹 曹同古川軍曹 同矢田量平曹長

 中隊ごとに十一班に分け、一班毎に給与班長心得を命ぜられる。すなわち、 第一中隊第一小隊第一給与班長岸田鉄蔵 第二班井実喜蔵 第三班斎藤市蔵 第四班玉井直之丞 第二小隊第五給与班長元木儀一 郎 第六班木甚七 第七班近藤権吉 第八班増田秀一 第三小隊第九給与班長草地権六 第十班鎌田市郎 第十一班佐竹儀蔵  第十二斑松野万寿 第四小隊第十三給与班長南勝三郎 第十四班目良謙蔵 第十五班南部隆 第十六班信原松太郎  中隊幹部候補生は以h十六名のほか、第一小隊吉本孝徳篠原峰吉梅井竹太郎新井直平第二小隊小山修吉渡辺徳三郎 樋口亀太郎 井上栄吉、目良謙吉 第三小隊友田鴨煕 橋本俊五郎 杉浦勇 吉水野克巳 第四小隊松井延太郎 小川栄一郎 永峰利三郎 高見清太郎 以上の幹部候補生は、練兵後毎日学校で特別教育を受ける。

 さて現役三年、予備役四年、すなわち明治三十一年三月末日で後備役となる。

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