「大塚稲太郎」の版間の差分
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+ | #入地当時は食糧なく、飯や味噌汁を一週間も焚出した。やっとのこと給与品の配給をうけたが、玄米は臼で搗かねぱならず、これは五戸分一個で配給された。兵員は朝飯前に出動し、家族は士官が毎日見廻りに来て飯は何を食するかを検査して行くが、その厳重であったことは、お鉢の中を開けて見るといふ有様で一ヵ年は成績が頗る良かった。<br> | ||
+ | #兵農を兼ねたので、扶助米が無くなればどうするかを心配した。そこで作物などは食料から作ることとし、米は給与米(七合五勺)の一割を節約せよといふのであったので貯金をしたり、無い時に食う用意をした。粗食で栄養不良にかかり、練兵で倒れたりしたが、思へばよく戦ってきたものだ。<br> | ||
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+ | [[Category:証言|おおつか]] |
2023年5月21日 (日) 12:35時点における最新版
[編集] プロフィール
- 大塚 稲太郎(明治26年5月入地 島根県出身 兵屋番号72番)
[編集] 出典元
- 『当麻町史』(1975年・昭和50年)<『東当麻兵村史』(1910年・明治43年)
[編集] 証言内容
- 入地当時は食糧なく、飯や味噌汁を一週間も焚出した。やっとのこと給与品の配給をうけたが、玄米は臼で搗かねぱならず、これは五戸分一個で配給された。兵員は朝飯前に出動し、家族は士官が毎日見廻りに来て飯は何を食するかを検査して行くが、その厳重であったことは、お鉢の中を開けて見るといふ有様で一ヵ年は成績が頗る良かった。
- 兵農を兼ねたので、扶助米が無くなればどうするかを心配した。そこで作物などは食料から作ることとし、米は給与米(七合五勺)の一割を節約せよといふのであったので貯金をしたり、無い時に食う用意をした。粗食で栄養不良にかかり、練兵で倒れたりしたが、思へばよく戦ってきたものだ。