「栃内元吉」の版間の差分
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+ | *1851(嘉永4)年 南部藩士栃内吉之の嫡子として盛岡で出生。 | ||
+ | *1868(明治元)年 戊辰戦争の後、南部藩の白石転封により同地に移住。父吉之の死亡により家督を継ぐ。 | ||
+ | *1870(明治3)年 盛岡に戻り、藩校作人館に入学。その後、上京。原敬(後の首相)とは作人館で同室。上京後も親交在り。 | ||
+ | *1872(明治5)年 開拓使に等外一等として採用され、東京出張所勤務。後に渡道し、札幌新道の開削工事の監督を手始めに開拓使の官員として各職(開拓使工業局庶務掛、東京出張所勤務、札幌本庁庶務掛、札幌警察署庶務掛)に就く。 | ||
+ | *1877(明治10)年 西南の役に参加したのを機に屯田兵の小隊長として従軍。その後は、山鼻兵村付将校、江別分村の出張所長、第四大隊の大隊長(明治24~28年)等を歴任。その多くを屯田事務局、屯田兵本部、屯田司令部等屯田兵中枢で勤務し、主に屯田兵村の建設に携わっている。 | ||
+ | *1878(明治11)年 佐藤直子(佐藤昌介の妹)と結婚 | ||
+ | *1886(明治19)年 永山屯田兵本部長に随行し、全道の兵村設置予定地を視察。「屯田兵本部長永山将軍北海道全道巡回日記」を著す。 | ||
+ | *1887(明治20)年 再び永山武四郎の随行として、約一年にわたり米国・露国・清国の視察。コサック兵制の研究、寒冷地農業の調査等を行う。 | ||
+ | *1899(明治32)年 旭川聯隊区司令官 | ||
+ | *1901(明治34)年 北海道庁拓殖課長(この時点で屯田兵に関わる職務を離れる) | ||
+ | *1904(明治37)年 召集されて日露戦争出征。 | ||
+ | *1905(明治38)年 凱旋後、陸軍歩兵中佐に進み退役。退役後は、実業界に転じ、石炭業、製糸業、牧畜業、木材関係の実業に就いた。 | ||
+ | *1943(昭和18)年 11月8日、藤沢市の鶴沼で没す。(享年93歳) | ||
== 業績 == | == 業績 == |
2013年5月10日 (金) 11:36時点における版
栃内元吉(とちない もときち) 嘉永4年(1851年 月 日)〜 昭和18年(1943年11月8日)
目次 |
経歴
- 1851(嘉永4)年 南部藩士栃内吉之の嫡子として盛岡で出生。
- 1868(明治元)年 戊辰戦争の後、南部藩の白石転封により同地に移住。父吉之の死亡により家督を継ぐ。
- 1870(明治3)年 盛岡に戻り、藩校作人館に入学。その後、上京。原敬(後の首相)とは作人館で同室。上京後も親交在り。
- 1872(明治5)年 開拓使に等外一等として採用され、東京出張所勤務。後に渡道し、札幌新道の開削工事の監督を手始めに開拓使の官員として各職(開拓使工業局庶務掛、東京出張所勤務、札幌本庁庶務掛、札幌警察署庶務掛)に就く。
- 1877(明治10)年 西南の役に参加したのを機に屯田兵の小隊長として従軍。その後は、山鼻兵村付将校、江別分村の出張所長、第四大隊の大隊長(明治24~28年)等を歴任。その多くを屯田事務局、屯田兵本部、屯田司令部等屯田兵中枢で勤務し、主に屯田兵村の建設に携わっている。
- 1878(明治11)年 佐藤直子(佐藤昌介の妹)と結婚
- 1886(明治19)年 永山屯田兵本部長に随行し、全道の兵村設置予定地を視察。「屯田兵本部長永山将軍北海道全道巡回日記」を著す。
- 1887(明治20)年 再び永山武四郎の随行として、約一年にわたり米国・露国・清国の視察。コサック兵制の研究、寒冷地農業の調査等を行う。
- 1899(明治32)年 旭川聯隊区司令官
- 1901(明治34)年 北海道庁拓殖課長(この時点で屯田兵に関わる職務を離れる)
- 1904(明治37)年 召集されて日露戦争出征。
- 1905(明治38)年 凱旋後、陸軍歩兵中佐に進み退役。退役後は、実業界に転じ、石炭業、製糸業、牧畜業、木材関係の実業に就いた。
- 1943(昭和18)年 11月8日、藤沢市の鶴沼で没す。(享年93歳)
業績
人物評、エピソード
著作
関連資料
伝記
- 永山武四郎の腹心 栃内元吉 『屯田』第52号、中神哲二執筆