「屯田兵制度」を編集中
警告: ログインしていません。
編集すると、IPアドレスがこのページの編集履歴に記録されます。この編集を取り消せます。
下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を保存して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
1行: | 1行: | ||
− | + | 屯田兵制度は、明治政府が北海道の開拓と北方警備を主な目的として、兵農両面を担う人員を北海道の各地に組織的・計画的に移住・配備する制度で、[[黒田清隆]]の建議によって1873(明治6)年12月25日に制度実施が決まった。<br> | |
− | + | 「屯田」は、漢の武帝が北方からの侵略に備えて配備した「田卒」の駐屯地の名に由来し、屯田兵制度は日本の軍政史上極めて特異な制度だった。<br> | |
− | + | ||
屯田兵制度に基づき、7,337名の[[屯田兵]]が37の兵村を形成し、農業や自治の面で北海道発展の礎を築いた。 | 屯田兵制度に基づき、7,337名の[[屯田兵]]が37の兵村を形成し、農業や自治の面で北海道発展の礎を築いた。 | ||
人口増加を背景にした北海道における[[徴兵制]]の実施や第七師団の創設によって、屯田兵制度は1904(明治37)年9月に廃止された。 | 人口増加を背景にした北海道における[[徴兵制]]の実施や第七師団の創設によって、屯田兵制度は1904(明治37)年9月に廃止された。 | ||
− | + | [[ファイル:Yamahana kaitakunozu.JPG|x450px|right|屯田兵開拓の図]] | |
写真は「山鼻屯田兵開拓の図」 | 写真は「山鼻屯田兵開拓の図」 | ||
257行: | 256行: | ||
4月17日、清国と日本との間で講和条約が調印されたため、屯田兵の諸隊は北海道へ帰還し、[[臨時第七師団]]は解散し、屯田兵はそれぞれの兵村へ帰って、再び開拓事業に従事した。この間の臨時第七師団の編成、兵員などについてどこにも記録が残っておらず、大本営の陸軍参謀本部が作成した出動計画はすべて極秘事項とされた。<br> | 4月17日、清国と日本との間で講和条約が調印されたため、屯田兵の諸隊は北海道へ帰還し、[[臨時第七師団]]は解散し、屯田兵はそれぞれの兵村へ帰って、再び開拓事業に従事した。この間の臨時第七師団の編成、兵員などについてどこにも記録が残っておらず、大本営の陸軍参謀本部が作成した出動計画はすべて極秘事項とされた。<br> | ||
− | + | ところが、屯田兵諸隊の動員に関する費用は大蔵省が計算して総理大臣に提出することになっており、その提出した書類によると、野戦隊に属する人員は将校以下5,701名となっている。この時の既設屯田兵は、歩兵隊が4,105名、特科隊400名の合計4,505名で、提出書類との差の1,596名は、将校その他の人員とみられる。<br> | |
− | + | ||
− | + | ||
=== 第七師団の新設 === | === 第七師団の新設 === | ||
283行: | 280行: | ||
== 屯田兵制度の廃止 == | == 屯田兵制度の廃止 == | ||
− | |||
− | |||
− | + | 北海道の人口が漸次増加していくのは、主に本州からの移住者が多くなったことを意味し、明治30年代になると、北海道の実情がかなり知れ渡ったこともあり、移住者も多くなった。屯田兵の最後の入植者が5年間の現役を終えて後備となった時期の1904(明治37)年9月には、ついに屯田兵制度が廃止された。<br> | |
+ | |||
+ | 廃止後に残った問題は、屯田兵の給与地の扱いだった。屯田兵の給与地に関する規則の中で主に問題となったのは、 | ||
① この土地が税金の対象になるか<br> | ① この土地が税金の対象になるか<br> | ||
295行: | 292行: | ||
①については、給与地がそれぞれの私有地と決定した時に、入植年度から兵役期間20年とそれに10年を加えて免税と決定された。<br> | ①については、給与地がそれぞれの私有地と決定した時に、入植年度から兵役期間20年とそれに10年を加えて免税と決定された。<br> | ||
②については、①の決定によって、私有地となった時点で自由に売却することができるとされた。<br> | ②については、①の決定によって、私有地となった時点で自由に売却することができるとされた。<br> | ||
− | + | ③の問題はむずかしい面があり、まず、内務省関係の法律として北海道に二級町村制が施行される時、屯田兵村がその地区の町村に帰属することになった。その時、屯田兵側は「公有地はわれわれ屯田兵の共同財産であるから兵村のものである」と主張した。しかし、北海道庁はその見解を取らず、兵村の共有地はすべて、その地の町村に属すると主張した。屯田兵側は第七師団副官部へ行って実情を説明したところ、副官部は屯田兵側と同じ見解を取り、この問題は内務省と陸軍省へと発展した。最終的には、1907(明治40)年になって、内務省が二級町村制を施行する法律の中で、屯田兵村の公有財産は旧兵村に帰属すると決定し、ようやく決着をみた。<br> | |
+ | |||
+ | 公有地に関してはさまざまな経緯があったが、ほとんどの旧兵村では現在の市町村の公有地となっている。また、この公有地が旧兵村の土地改良費、学校増築費、道路補修、神社・寺等に寄付したケースも見られた。<br> | ||
− | |||
== 屯田兵村の姿 == | == 屯田兵村の姿 == | ||
315行: | 313行: | ||
</pre> | </pre> | ||
− | + | この注意書は琴似兵村のものだが、37兵村すべてが同じような状態におかれたと推察される。各兵村の入植年度はそれぞれ異なるが、扶助期間の3ケ年の状態はほとんど同様なものと考えられる。毎年4月から11月の間は朝4時、ラッパの響きで一斉に起床することになっていた。そのため主婦は30分位も前に起床して朝・昼の食事を準備しなければならず、小さな子供たちがいればなおさらのことだった。<br> | |
− | + | 週番士官は朝5時に点呼を取りに必ずやって来て、都合で士官が来れない時には週番下士が来ることもあった。いずれにしても、中隊を構成している兵村では自分の兵屋前で全員が整列することになっていた。点呼の際、屯田兵が家族全員の状態を報告し、週番士官の任務の一つは屯田兵及びその家族の身体を見ることだった。病気で欠席する者がいたときには、病気の状態を聞いて医官に報告することになっていた。<br> | |
− | + | 朝6時にラッパの音を合図に全員が事業を開始した。屯田兵は中隊本部前に集合し、家族はそれぞれの開拓現場へ行き、そこでは下士が待っていた。昼12時まで一切休むことはできず、昼食1時間を挟んで、午後1時から6時まで仕事は続けて行なわれた。<br> | |
これが一日の日課のため次第に疲労が重なることも多かったとされる。春から夏、秋までの間、決まった休日以外は病気になった場合を除いて全員が仕事をしなければならず、強制労働に近い実態だった。作業の監督は、小隊長または分隊長、時には下士が当たり、作業の方法・準序等を指示したとされる。屯田兵による開拓は、一般の開拓者や開拓社組織によるものと比べて早いとされるが、中隊の組織下で厳しく進められた結果ともいえる。<br> | これが一日の日課のため次第に疲労が重なることも多かったとされる。春から夏、秋までの間、決まった休日以外は病気になった場合を除いて全員が仕事をしなければならず、強制労働に近い実態だった。作業の監督は、小隊長または分隊長、時には下士が当たり、作業の方法・準序等を指示したとされる。屯田兵による開拓は、一般の開拓者や開拓社組織によるものと比べて早いとされるが、中隊の組織下で厳しく進められた結果ともいえる。<br> | ||
327行: | 325行: | ||
開拓者は、それぞれに事情を抱えながらも、未開地へ行こうと決心するに際しては、大きな勇気が必要とされた。一般の開拓者たちは指導者が予め北海道内の場所の説明を受けて出発したのに対し、屯田兵は入植地がどんな場所かはまったく知らずに現地に入った。県庁が書いた送り状(戸籍)には、北海道の何国何郡何村……と書いてあっても、その村の場所さえはっきりせず、どんな気候風土かもわからなかった。<br> | 開拓者は、それぞれに事情を抱えながらも、未開地へ行こうと決心するに際しては、大きな勇気が必要とされた。一般の開拓者たちは指導者が予め北海道内の場所の説明を受けて出発したのに対し、屯田兵は入植地がどんな場所かはまったく知らずに現地に入った。県庁が書いた送り状(戸籍)には、北海道の何国何郡何村……と書いてあっても、その村の場所さえはっきりせず、どんな気候風土かもわからなかった。<br> | ||
− | + | 特に、九州・四国・中国地方の人々は、北国の過酷な環境については、予め説明されても、ほとんど実感できなかったとみられる。出身地から最も近い港から船に乗って、初めて将来自分の兵屋の隣人となる人に会った。毎年5、6月に移住するのが例になっていたが、春の遅い北海道の寒さは、彼らにとって厳しいものだった。<br> | |
− | + | 指揮官の言うままに兵村に到着すると、自分の兵屋となる所を見つけるのに一苦労だった。原始林の中にぽっと自分の家を見たときの心情は、多くの日記にほぼ共通して「女子供はみんな泣きました。こんなところに来て……」とつづられている。夜はフクロウのさびしい声、鹿や熊の遠吠えだけで、人の声など全く聞けなかったという。<br> | |
− | + | 入地から1週間後に訓練が始まり、家族たちは開拓事業を始めたが、ラッパの響で起床するなど、初めての体験だった。「芋の屯田兵」としばしば言われたのは、官給の米をほとんど自分たちが食べず、売って日用品を買うのが兵村内の食生活だったため。日銭が全くなく、屯田兵の衣服は支給されましたが、家族の衣服はそれぞれ自分で用意しなければならなかった。<br> | |
服従が最初に幹部から教えられたことで、「これが開拓生活中で一番辛かった」という話が多く残っているように、屯田兵とその家族はすべて命令で動かされた。中隊幹部の指導の下での生活は、3ケ年か5ケ年で、このような生活にも次第に慣れていった。また、開拓をするには皆で協力しなければ、二抱え、三抱えもある木を伐採することが出来ず、兵村内の道を作るにも協力が必要でした。「協同」という言葉は、兵村にすぐに根付いたとされる。<br> | 服従が最初に幹部から教えられたことで、「これが開拓生活中で一番辛かった」という話が多く残っているように、屯田兵とその家族はすべて命令で動かされた。中隊幹部の指導の下での生活は、3ケ年か5ケ年で、このような生活にも次第に慣れていった。また、開拓をするには皆で協力しなければ、二抱え、三抱えもある木を伐採することが出来ず、兵村内の道を作るにも協力が必要でした。「協同」という言葉は、兵村にすぐに根付いたとされる。<br> | ||
− | + | 屯田兵や家族が最も嫌なことは、他人と比較して開墾が少ないことだった。これにはさまざまな原因があるが、機械を利用できない時代だったため二人より三人の方が早く開墾でき、家族が少ない者ほど苦労が多いと言うことだった。成功するか挫折して離村するかは、家族の労働力と農業条件にかかっていたともいえる。また、入植時に抽選で土地を決める「くじ運」も大きく左右した。<br> | |
== 開拓者精神 == | == 開拓者精神 == | ||
− | + | 兵村へ入植した屯田兵とその家族は、次第に地域社会を形成していくが、その経過は他の部落と全く違っていた。普通に部落を形成するには2、3人あるいは5、6人の集まりから始まって、年を経て次第に人が集まってゆくのに対し、兵村ではある日突然、千人位の人が入って部落を形成したため、その地区の一大勢力となった。その意味で屯田兵村は、後から入植する開拓者の模範ともなった。<br> | |
− | + | 屯田兵は防備の役割を担ったため、兵村は一大兵営でもあった。そこに1ケ中隊と言う陸軍の戦闘1単位を作り、それが2から4で一大隊を形成した。太平洋戦争の終結後、北海道を防備している自衛隊は、屯田兵と組織的には全く異なるが、ともに志願者の集団である点で一致している。<br> | |
− | + | 明治年間、北海道を早急に開拓するという使令は、「北門の鎖鑰」を固めることでもあり、国家の一大事業だった。その担い手の一つが屯田兵とその家族であり、その実践はすべて試験的に進められた。北海道の未開地で越年し、しかも集団で農業経営したのは初めての経験だった。それを成功に導いたのは、ほかならぬ屯田兵だった。屯田兵は禁じられた水稲づくりに挑戦し、何回か営倉に入れられながらも試作を続け、成功したとされる。<br> | |
− | + | 困難の中にあって工夫し、根気よく実行を重ねた彼らの開拓者精神こそが、 | |
+ | 現在の北海道発展の礎となったことは、後世にながく伝えられるべきである。<br> |